私などはとても使う気にならない。  私が先生と知り合いになったのは鎌倉より帰るべきはずであった。それで彼はとうとう帰る事になった。せっかく来た私は一人取り残された。  学校の授業が始まるにはまだ大分な宿を探す面倒ももたなかったのである。  宿は鎌倉でも辺鄙を一つ越さなければ手が届かなかった。車で行っても二十銭は取られた。けれども個人の別荘はそこここにいくつでも建てられていた。それに海へはごく近いので海水浴をやるには至極便利な地位を占めていた。  私は毎日海へはいりに出掛けた。古い燻るのは愉快であった。  私は実に先生をこの雑沓てる事にしていた。  私れていたからである。  その西洋人の優れて白い皮膚の色が、掛茶屋へ入るや否なの前に立っているこの西洋人がいかにも珍しく見えた。  彼はやがて自分の傍を拾い上げているところであったが、それを取り上げるや否や、すぐ頭を包んで、海の方へ歩き出した。その人がすなわち先生であった。  私は単に好奇心のために、並んで浜辺を下りて行く二人の後姿いて着物を着て、さっさとどこへか行ってしまった。  彼らの出て行った後い出せずにしまった。  その時の私は屈托の垂れる手を振りながら掛茶屋に入ると、先生はもうちゃんと着物を着て入れ違いに外へ出て行った。  私まるで姿を見せなかった。先生はいつでも一人であった。  或の下へ首と手を突ッ込んで眼鏡を拾い出した。先生は有難うといって、それを私の手から受け取った。  次の日私は先生の後をした。青空の色がぎらぎらと眼を射るように痛烈な色を私の顔に投げ付けた。「愉快ですね」と私は大きな声を出した。  しばらくして海の中で起き上がるように姿勢を改めた先生は、「もう帰りませんか」といって私を促した。比較的強い体質をもった私は、もっと海の中で遊んでいたかった。しかし先生から誘われた時、私はすぐ「ええ帰りましょう」と快く答えた。そうして二人でまた元の路を浜辺へ引き返した。  私はこれから先生と懇意になった。しかし先生がどこにいるかはまだ知らなかった。  それから中りが悪くなった。「先生は?」と聞き返さずにはいられなかった。これが私の口を出た先生という言葉の始まりである。  私はその晩先生の宿を尋ねた。宿といっても普通の旅館と違って、広い寺の境内えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。  私めた。  私はこういう事でよく先生から失望させられた。先生はそれに気が付いているようでもあり、また全く気が付かないようでもあった。私はまた軽微な失望を繰り返しながら、それがために先生から離れて行く気にはなれなかった。むしろそれとは反対で、不安に揺する前に、まず自分を軽蔑していたものとみえる。  私は無論先生を訪ねるつもりで東京へ帰って来た。帰ってから授業の始まるまでにはまだ二週間の日数と共に、濃く私の心を染め付けた。私は往来で学生の顔を見るたびに新しい学年に対する希望と緊張とを感じた。私はしばらく先生の事を忘れた。  授業が始まって、一カ月ばかりすると私の心に、また一種の弛した。私の頭には再び先生の顔が浮いて出た。私はまた先生に会いたくなった。  始めて先生の宅へはいった。すると奥さんらしい人が代って出て来た。美しい奥さんであった。  私はその人から鄭寧らした。  私が日に光るまで近く寄って行った。そうして出し抜けに「先生」と大きな声を掛けた。先生は突然立ち留まって私の顔を見た。 「どうして……、どうして……」  先生は同じ言葉を二遍えられなくなった。 「私の後けて来たのですか。どうして……」  先生の態度はむしろ落ち付いていた。声はむしろ沈んでいた。けれどもその表情の中いえないような一種の曇りがあった。  私は私がどうしてここへ来たかを先生に話した。 「誰がその人の名をいいましたか」 「いいえ、そんな事は何もおっしゃいません」 「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、始めて会ったあなたに。いう必要がないんだから」  先生はようやく得心らなかった。  先生と私は通りへ出ようとして墓の間を抜けた。依撒伯拉何々り付けた小さい墓の前で、「これは何と読むんでしょう」と先生に聞いた。「アンドレとでも読ませるつもりでしょうね」といって先生は苦笑した。  先生はこれらの墓標が現わす人種々に考えた事がありませんね」といった。私は黙った。先生もそれぎり何ともいわなくなった。  墓地の区切り目に、大きな銀杏まるようになります」といった。先生は月に一度ずつは必ずこの木の下を通るのであった。  向うの方で凸凹の手を休めて私たちを見ていた。私たちはそこから左へ切れてすぐ街道へ出た。  これからどこへ行くという目的かなかった。それでも私はさほどの窮屈を感じなかったので、ぶらぶらいっしょに歩いて行った。 「すぐお宅へお帰りですか」 「ええ別に寄る所もありませんから」  二人はまた黙って南の方へ坂を下りた。 「先生のお宅の墓地はあすこにあるんですか」と私がまた口を利き出した。 「いいえ」 「どなたのお墓があるんですか。――ご親類のお墓ですか」 「いいえ」  先生はこれ以外に何も答えなかった。私もその話はそれぎりにして切り上げた。すると一町で、先生が不意にそこへ戻って来た。 「あすこには私の友達の墓があるんです」 「お友達のお墓へ毎月お参りをなさるんですか」 「そうです」  先生はその日これ以外を語らなかった。  私はそれから時々先生を訪問するようになった。行くたびに先生は在宅であった。先生に会う度数く先生の玄関へ足を運んだ。  けれども先生の私に対する態度は初めて挨拶ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、――これが先生であった。  今いった通り先生は始終静かであった。落ち付いていた。けれども時として変な曇りがその顔を横切る事があった。窓に黒い鳥影が射る晩の事であった。  先生と話していた私は、ふと先生がわざわざ注意してくれた銀杏える楽な日であった。私は先生に向かってこういった。 「先生雑司ヶ谷の銀杏はもう散ってしまったでしょうか」 「まだ空坊主にはならないでしょう」  先生はそう答えながら私の顔を見守った。そうしてそこからしばし眼を離さなかった。私はすぐいった。 「今度お墓参ござんすか。私は先生といっしょにあすこいらが散歩してみたい」 「私は墓参りに行くんで、散歩に行くんじゃないですよ」 「しかしついでに散歩をなすったらちょうど好いじゃありませんか」  先生は何とも答えなかった。しばらくしてから、「私のは本当の墓参りだけなんだから」といって、どこまでも墓参に見えた。私と行きたくない口実だか何だか、私にはその時の先生が、いかにも子供らしくて変に思われた。私はなおと先へ出る気になった。 「じゃお墓参りでも好れて行って下さい。私もお墓参りをしますから」  実際私には墓参と散歩との区別がほとんど無意味のように思われたのである。すると先生の眉ち雑司ヶ谷で「先生」と呼び掛けた時の記憶を強く思い起した。二つの表情は全く同じだったのである。 「私は」と先生がいった。「私はあなたに話す事のできないある理由があって、他さえまだ伴れて行った事がないのです」  私で研究されるのを絶えず恐れていたのである。  私は月に二度もしくは三度ずつ必ず先生の宅くなった時のある日、先生は突然私に向かって聞いた。 「あなたは何でそうたびたび私のようなものの宅へやって来るのですか」 「何でといって、そんな特別な意味はありません。――しかしお邪魔なんですか」 「邪魔だとはいいません」  なるほど迷惑という様子は、先生のどこにも見えなかった。私は先生の交際の範囲の極な私ほど先生に親しみをもっていないように見受けられた。 「私は淋しい人間です」と先生がいった。「だからあなたの来て下さる事を喜んでいます。だからなぜそうたびたび来るのかといって聞いたのです」 「そりゃまたなぜです」  私がこう聞き返した時、先生は何とも答えなかった。ただ私の顔を見て「あなたは幾歳ですか」といった。  この問答は私にとってすこぶる不得要領や笑い出した。 「また来ましたね」といった。 「ええ来ました」といって自分も笑った。  私は外ったろうと思う。しかし先生にこういわれた時は、まるで反対であった。癪に触らないばかりでなくかえって愉快だった。 「私は淋つかりたいのでしょう……」 「私はちっとも淋しくはありません」 「若いうちほど淋へ来るのですか」  ここでもこの間の言葉がまた先生の口から繰り返された。 「あなたは私に会ってもおそらくまだ淋の方を向いて今に手を広げなければならなくなります。今に私の宅の方へは足が向かなくなります」  先生はこういって淋しい笑い方をした。  幸かなければならないようになった。  普通の人間として私は女に対して冷淡ではなかった。けれども年の若い私の今まで経過して来た境遇からいって、私はほとんど交際らしい交際を女に結んだ事がなかった。それが源因かどうかは疑問だが、私の興味は往来で出合う知りもしない女に向かって多く働くだけであった。先生の奥さんにはその前玄関で会った時、美しいという印象を受けた。それから会うたんびに同じ印象を受けない事はなかった。しかしそれ以外に私はこれといってとくに奥さんについて語るべき何物ももたないような気がした。  これは奥さんに特色がないというよりも、特色を示す機会が来なかったのだと解釈する方が正当かも知れない。しかし私はいつでも先生に付属した一部分のような心持で奥さんに対していた。奥さんも自分の夫の所へ来る書生だからという好意で、私を遇していたらしい。だから中間に立つ先生を取り除に何の感じも残っていない。  ある時私は先生の宅のような会話が始まった。 「珍らしい事。私に呑めとおっしゃった事は滅多にないのにね」 「お前は嫌い心持になるよ」 「ちっともならないわ。苦しいぎりで。でもあなたは大変ご愉快を召し上がると」 「時によると大変愉快になる。しかしいつでもというわけにはいかない」 「今夜はいかがです」 「今夜は好い心持だね」 「これから毎晩少しずつ召し上がると宜ござんすよ」 「そうはいかない」 「召し上がって下さいよ。その方が淋しくなくって好いから」  先生の宅は宅の中にいるものは先生と私だけのような気がした。 「子供でもあると好いんですがね」と奥さんは私の方を向いていった。私は「そうですな」と答えた。しかし私の心には何の同情も起らなかった。子供を持った事のないその時の私は、子供をただ蒼蠅いもののように考えていた。 「一人貰ってやろうか」と先生がいった。 「貰ッ子じゃ、ねえあなた」と奥さんはまた私の方を向いた。 「子供はいつまで経ったってできっこないよ」と先生がいった。  奥さんは黙っていた。「なぜです」と私が代りに聞いた時先生は「天罰だからさ」といって高く笑った。  私き出されるようであった。  先生は時々奥さんを伴の葉を一枚封じ込めた郵便も貰った。  当時の私の眼に映った先生と奥さんの間柄はまずこんなものであった。そのうちにたった一つの例外があった。ある日私がいつもの通り、先生の玄関から案内を頼もうとすると、座敷の方でだれかの話し声がした。よく聞くと、それが尋常の談話でなくって、どうも言逆しなかったが、どうも奥さんらしく感ぜられた。泣いているようでもあった。私はどうしたものだろうと思って玄関先で迷ったが、すぐ決心をしてそのまま下宿へ帰った。  妙に不安な心持が私を襲って来た。私は書物を読んでも呑を着けていた。私はそれなりすぐ表へ出た。  その晩私は先生といっしょに麦酒を飲んだ。先生は元来酒量に乏しい人であった。ある程度まで飲んで、それで酔えなければ、酔うまで飲んでみるという冒険のできない人であった。 「今日は駄目です」といって先生は苦笑した。 「愉快になれませんか」と私は気の毒そうに聞いた。  私の腹の中には始終先刻かろうかと思い直したりする動揺が、妙に私の様子をそわそわさせた。 「君、今夜はどうかしていますね」と先生の方からいい出した。「実は私も少し変なのですよ。君に分りますか」  私は何の答えもし得なかった。 「実は先刻させてしまったんです」と先生がまたいった。 「どうして……」  私には喧嘩という言葉が口へ出て来なかった。 「妻が私を誤解するのです。それを誤解だといって聞かせても承知しないのです。つい腹を立てたのです」 「どんなに先生を誤解なさるんですか」  先生は私のこの問いに答えようとはしなかった。 「妻が考えているような人間なら、私だってこんなに苦しんでいやしない」  先生がどんなに苦しんでいるか、これも私には想像の及ばない問題であった。  二人が帰るとき歩きながらの沈黙が一丁き出した。 「悪い事をした。怒って出たから妻にまるで頼りにするものがないんだから」  先生の言葉はちょっとそこで途切れたが、別に私の返事を期待する様子もなく、すぐその続きへ移って行った。 「そういうと、夫の方はいかにも心丈夫のようで少し滑稽だが。君、私は君の眼にどう映りますかね。強い人に見えますか、弱い人に見えますか」 「中位に見えます」と私は答えた。この答えは先生にとって少し案外らしかった。先生はまた口を閉じて、無言で歩き出した。  先生の宅った。 「もう遅いから早く帰りたまえ。私も早く帰ってやるんだから、妻君のために」  先生が最後に付け加えた「妻君のために」という言葉は妙にその時の私の心を暖かにした。私はその言葉のために、帰ってから安心して寝る事ができた。私はその後も長い間この「妻君のために」という言葉を忘れなかった。  先生と奥さんの間に起った波瀾らした。 「私は世の中で女というものをたった一人しか知らない。妻であるべきはずです」  私は今前後の行られてしまった。  私はそのうち先生の留守に行って、奥さんと二人差向としてその日突然起った出来事であった。先生はすぐ帰るから留守でも私に待っているようにといい残して行った。それで私は座敷へ上がって、先生を待つ間、奥さんと話をした。  その時の私いで色々の話をした。しかしそれは特色のないただの談話だから、今ではまるで忘れてしまった。そのうちでたった一つ私の耳に留まったものがある。しかしそれを話す前に、ちょっと断っておきたい事がある。  先生は大学出身であった。これは始めから私に知れていた。しかし先生の何もしないで遊んでいるという事は、東京へ帰って少し経ってから始めて分った。私はその時どうして遊んでいられるのかと思った。  先生はまるで世間に名前を知られていない人であった。だから先生の学問や思想については、先生と密切らなかったけれども、何しろ二の句の継げないほどに強いものだったので、私はそれぎり何もいう勇気が出なかった。  私が奥さんと話している間に、問題が自然先生の事からそこへ落ちて来た。 「先生はなぜああやって、宅で考えたり勉強したりなさるだけで、世の中へ出て仕事をなさらないんでしょう」 「あの人は駄目ですよ。そういう事が嫌いなんですから」 「つまり下らない事だと悟っていらっしゃるんでしょうか」 「悟るの悟らないのって、――そりゃ女だからわたくしには解りませんけれど、おそらくそんな意味じゃないでしょう。やっぱり何かやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だから気の毒ですわ」 「しかし先生は健康からいって、別にどこも悪いところはないようじゃありませんか」 「丈夫ですとも。何にも持病はありません」 「それでなぜ活動ができないんでしょう」 「それが解らないのよ、あなた。それが解るくらいなら私だって、こんなに心配しやしません。わからないから気の毒でたまらないんです」  奥さんの語気には非常に同情があった。それでも口元だけには微笑が見えた。外側からいえば、私の方がむしろ真面目だった。私はむずかしい顔をして黙っていた。すると奥さんが急に思い出したようにまた口を開いた。 「若い時はあんな人じゃなかったんですよ。若い時はまるで違っていました。それが全く変ってしまったんです」 「若い時っていつ頃ですか」と私が聞いた。 「書生時代よ」 「書生時代から先生を知っていらっしゃったんですか」  奥さんは急に薄赤い顔をした。  奥さんは東京の人であった。それはかつて先生からも奥さん自身からも聞いて知っていた。奥さんは「本当いうと合県人であった。だから奥さんがもし先生の書生時代を知っているとすれば、郷里の関係からでない事は明らかであった。しかし薄赤い顔をした奥さんはそれより以上の話をしたくないようだったので、私の方でも深くは聞かずにおいた。  先生と知り合いになってから先生の亡くなるまでに、私はずいぶん色々の問題で先生の思想や情操に触れてみたが、結婚当時の状況については、ほとんど何ものも聞き得なかった。私は時によると、それを善意に解釈してもみた。年輩の先生の事だから、艶っぽい問題になると、正直に自分を開放するだけの勇気がないのだろうと考えた。もっともどちらも推測に過ぎなかった。そうしてどちらの推測の裏にも、二人の結婚の奥に横たわる花やかなロマンスの存在を仮定していた。  私の仮定ははたして誤らなかった。けれども私はただ恋の半面だけを想像に描なものであるかは相手の奥さんにまるで知れていなかった。奥さんは今でもそれを知らずにいる。先生はそれを奥さんに隠して死んだ。先生は奥さんの幸福を破壊する前に、まず自分の生命を破壊してしまった。  私は今この悲劇について何事も語らない。その悲劇のためにむしろ生れ出たともいえる二人の恋愛については、先刻いった通りであった。二人とも私にはほとんど何も話してくれなかった。奥さんは慎みのために、先生はまたそれ以上の深い理由のために。  ただ一つ私の記憶に残っている事がある。或だてている人が沢山あった。 「新婚の夫婦のようだね」と先生がいった。 「仲が好さそうですね」と私が答えた。  先生は苦笑さえしなかった。二人の男女を視線の外に置くような方角へ足を向けた。それから私にこう聞いた。 「君は恋をした事がありますか」  私はないと答えた。 「恋をしたくはありませんか」  私は答えなかった。 「したくない事はないでしょう」 「ええ」 「君は今あの男と女を見て、冷評っていましょう」 「そんな風に聞こえましたか」 「聞こえました。恋の満足を味わっている人はもっと暖かい声を出すものです。しかし……しかし君、恋は罪悪ですよ。解っていますか」  私は急に驚かされた。何とも返事をしなかった。  我々は群集の中にいた。群集はいずれも嬉しそうな顔をしていた。そこを通り抜けて、花も人も見えない森の中へ来るまでは、同じ問題を口にする機会がなかった。 「恋は罪悪ですか」と私がその時突然聞いた。 「罪悪です。たしかに」と答えた時の先生の語気は前と同じように強かった。 「なぜですか」 「なぜだか今に解ります。今にじゃない、もう解っているはずです。あなたの心はとっくの昔からすでに恋で動いているじゃありませんか」  私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった。 「私の胸の中にこれという目的物は一つもありません。私は先生に何も隠してはいないつもりです」 「目的物がないから動くのです。あれば落ち付けるだろうと思って動きたくなるのです」 「今それほど動いちゃいません」 「あなたは物足りない結果私の所に動いて来たじゃありませんか」 「それはそうかも知れません。しかしそれは恋とは違います」 「恋に上なんです。異性と抱き合う順序として、まず同性の私の所へ動いて来たのです」 「私には二つのものが全く性質を異にしているように思われます」 「いや同じです。私は男としてどうしてもあなたに満足を与えられない人間なのです。それから、ある特別の事情があって、なおさらあなたに満足を与えられないでいるのです。私は実際お気の毒に思っています。あなたが私からよそへ動いて行くのは仕方がない。私はむしろそれを希望しているのです。しかし……」  私は変に悲しくなった。 「私が先生から離れて行くようにお思いになれば仕方がありませんが、私にそんな気の起った事はまだありません」  先生は私の言葉に耳を貸さなかった。 「しかし気を付けないといけない。恋は罪悪なんだから。私の所では満足が得られない代りに危険もないが、――君、黒い長い髪で縛られた時の心持を知っていますか」  私は想像で知っていた。しかし事実としては知らなかった。いずれにしても先生のいう罪悪という意味は朦朧らなかった。その上私は少し不愉快になった。 「先生、罪悪という意味をもっと判然いって聞かして下さい。それでなければこの問題をここで切り上げて下さい。私自身に罪悪という意味が判然解るまで」 「悪い事をした。私はあなたに真実していたのだ。私は悪い事をした」  先生と私とは博物館の裏から鶯渓に見えた。 「君は私がなぜ毎月っている友人の墓へ参るのか知っていますか」  先生のこの問いは全く突然であった。しかも先生は私がこの問いに対して答えられないという事もよく承知していた。私はしばらく返事をしなかった。すると先生は始めて気が付いたようにこういった。 「また悪い事をいった。焦慮めましょう。とにかく恋は罪悪ですよ、よござんすか。そうして神聖なものですよ」  私には先生の話がますます解らなくなった。しかし先生はそれぎり恋を口にしなかった。  年の若い私りを守って多くを語らない先生の方が偉く見えたのであった。 「あんまり逆上ちゃいけません」と先生がいった。 「覚がってくれなかった。 「あなたは熱に浮かされているのです。熱がさめると厭になります。私は今のあなたからそれほどに思われるのを、苦しく感じています。しかしこれから先のあなたに起るべき変化を予想して見ると、なお苦しくなります」 「私はそれほど軽薄に思われているんですか。それほど不信用なんですか」 「私はお気の毒に思うのです」 「気の毒だが信用されないとおっしゃるんですか」  先生は迷惑そうに庭の方を向いた。その庭に、この間まで重そうな赤い強い色をぽたぽた点じていた椿める癖があった。 「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」  その時生垣に奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。 「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。  先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。 「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪に仕方がないのです」 「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」 「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」  私はもう少し先まで同じ道を辿らなかった。それを想像する余裕を与えないほど早く先生はまた座敷へ帰って来た。 「とにかくあまり私を信用してはいけませんよ。今に後悔するから。そうして自分が欺をするようになるものだから」 「そりゃどういう意味ですか」 「かつてはその人の膝ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」  私はこういう覚悟をもっている先生に対して、いうべき言葉を知らなかった。  その後は奥さんの顔を見るたびに気になった。先生は奥さんに対しても始終こういう態度に出るのだろうか。もしそうだとすれば、奥さんはそれで満足なのだろうか。  奥さんの様子は満足とも不満足とも極に顔を合せなかったから。  私の疑惑はまだその上にもあった。先生の人間に対するこの覚悟はどこから来るのだろうか。ただ冷たい眼で自分を内省したり現代を観察したりした結果なのだろうか。先生は坐め上げた主義の裏には、強い事実が織り込まれているらしかった。自分と切り離された他人の事実でなくって、自分自身が痛切に味わった事実、血が熱くなったり脈が止まったりするほどの事実が、畳み込まれているらしかった。  これは私の胸で推測するがものはない。先生自身すでにそうだと告白していた。ただその告白が雲の峯わせた。  私は先生のこの人生観の基点に、或について用いられるべきで、先生と奥さんの間には当てはまらないもののようでもあった。  雑司ヶ谷にはならなかった。むしろ二人の間に立って、自由の往来を妨げる魔物のようであった。  そうこうしているうちに、私はまた奥さんと差し向いで話をしなければならない時機が来た。その頃を食わせなければならなくなった。先生は訳を話して、私に帰ってくる間までの留守番を頼んだ。私はすぐ引き受けた。  私れると悪いって、つい今しがた出掛けました」といった奥さんは、私を先生の書斎へ案内した。  書斎には洋机としながら気をどこかに配った。  三十分ほどすると、奥さんがまた書斎の入口へ顔を出した。「おや」といって、軽く驚いた時の眼を私に向けた。そうして客に来た人のように鹿爪らしく控えている私をおかしそうに見た。 「それじゃ窮屈でしょう」 「いえ、窮屈じゃありません」 「でも退屈でしょう」 「いいえ。泥棒が来るかと思って緊張しているから退屈でもありません」  奥さんは手に紅茶茶碗を持ったまま、笑いながらそこに立っていた。 「ここは隅っこだから番をするには好くありませんね」と私がいった。 「じゃ失礼ですがもっと真中へ出て来て頂戴しければあちらで上げますから」  私は奥さんの後られないといけないといって、茶碗に手を触れなかった。 「先生はやっぱり時々こんな会へお出掛けになるんですか」 「いいえ滅多いになるようです」  こういった奥さんの様子に、別段困ったものだという風も見えなかったので、私はつい大胆になった。 「それじゃ奥さんだけが例外なんですか」 「いいえ私も嫌われている一人なんです」 「そりゃ嘘です」と私がいった。「奥さん自身嘘と知りながらそうおっしゃるんでしょう」 「なぜ」 「私にいわせると、奥さんが好きになったから世間が嫌いになるんですもの」 「あなたは学問をする方なじ理屈で」 「両方ともいわれる事はいわれますが、この場合は私の方が正しいのです」 「議論はいやよ。よく男の方は議論だけなさるのね、面白そうに。空ができると思いますわ」  奥さんの言葉は少し手痛すほどに奥さんは現代的でなかった。奥さんはそれよりもっと底の方に沈んだ心を大事にしているらしく見えた。  私らさないように、「もう一杯上げましょうか」と聞いた。私はすぐ茶碗を奥さんの手に渡した。 「いくつ? 一つ? 二ッつ?」  妙なもので角砂糖をつまみ上げた奥さんは、私の顔を見て、茶碗の中へ入れる砂糖の数ちていた。  私は黙って茶を飲んだ。飲んでしまっても黙っていた。 「あなた大変黙り込んじまったのね」と奥さんがいった。 「何かいうとまた議論を仕掛けるなんて、叱り付けられそうですから」と私は答えた。 「まさか」と奥さんが再びいった。  二人はそれを緒口にまた話を始めた。そうしてまた二人に共通な興味のある先生を問題にした。 「奥さん、先刻でいってる事じゃないんだから」 「じゃおっしゃい」 「今奥さんが急にいなくなったとしたら、先生は現在の通りで生きていられるでしょうか」 「そりゃ分らないわ、あなた。そんな事、先生に聞いて見るより外に仕方がないじゃありませんか。私の所へ持って来る問題じゃないわ」 「奥さん、私は真面目ですよ。だから逃げちゃいけません。正直に答えなくっちゃ」 「正直よ。正直にいって私には分らないのよ」 「じゃ奥さんは先生をどのくらい愛していらっしゃるんですか。これは先生に聞くよりむしろ奥さんに伺っていい質問ですから、あなたに伺います」 「何もそんな事を開き直って聞かなくっても好いじゃありませんか」 「真面目くさって聞くがものはない。分り切ってるとおっしゃるんですか」 「まあそうよ」 「そのくらい先生に忠実なあなたが急にいなくなったら、先生はどうなるんでしょう。世の中のどっちを向いても面白そうでない先生は、あなたが急にいなくなったら後でどうなるでしょう。先生から見てじゃない。あなたから見てですよ。あなたから見て、先生は幸福になるでしょうか、不幸になるでしょうか」 「そりゃ私から見れば分っています。(先生はそう思っていないかも知れませんが)。先生は私を離れれば不幸になるだけです。あるいは生きていられないかも知れませんよ。そういうと、己惚になるようですが、私は今先生を人間としてできるだけ幸福にしているんだと信じていますわ。どんな人があっても私ほど先生を幸福にできるものはないとまで思い込んでいますわ。それだからこうして落ち付いていられるんです」 「その信念が先生の心に好く映るはずだと私は思いますが」 「それは別問題ですわ」 「やっぱり先生から嫌われているとおっしゃるんですか」 「私は嫌われてるとは思いません。嫌われる訳がないんですもの。しかし先生は世間が嫌いなんでしょう。世間というより近頃として、私も好かれるはずがないじゃありませんか」  奥さんの嫌われているという意味がやっと私に呑み込めた。  私り始めたいわゆる新しい言葉などはほとんど使わなかった。  私は女というものに深い交際の間に横たわる思想の不平均という考えもほとんど起らなかった。私は奥さんの女であるという事を忘れた。私はただ誠実なる先生の批評家および同情家として奥さんを眺めた。 「奥さん、私がこの前なぜ先生が世間的にもっと活動なさらないのだろうといって、あなたに聞いた時に、あなたはおっしゃった事がありますね。元はああじゃなかったんだって」 「ええいいました。実際あんなじゃなかったんですもの」 「どんなだったんですか」 「あなたの希望なさるような、また私の希望するような頼もしい人だったんです」 「それがどうして急に変化なすったんですか」 「急にじゃありません、段々ああなって来たのよ」 「奥さんはその間始終先生といっしょにいらしったんでしょう」 「無論いましたわ。夫婦ですもの」 「じゃ先生がそう変って行かれる源因るべきはずですがね」 「それだから困るのよ。あなたからそういわれると実に辛あの人に、どうぞ打ち明けて下さいって頼んで見たか分りゃしません」 「先生は何とおっしゃるんですか」 「何にもいう事はない、何にも心配する事はない、おれはこういう性質になったんだからというだけで、取り合ってくれないんです」  私は黙っていた。奥さんも言葉を途切にいる下女はことりとも音をさせなかった。私はまるで泥棒の事を忘れてしまった。 「あなたは私に責任があるんだと思ってやしませんか」と突然奥さんが聞いた。 「いいえ」と私が答えた。 「どうぞ隠さずにいって下さい。そう思われるのは身を切られるより辛いんだから」と奥さんがまたいった。「これでも私は先生のためにできるだけの事はしているつもりなんです」 「そりゃ先生もそう認めていられるんだから、大丈夫です。ご安心なさい、私が保証します」  奥さんは火鉢の灰を掻ち鳴りを沈めた。 「私はとうとう辛防し切れなくなって、先生に聞きました。私に悪い所があるなら遠慮なくいって下さい、改められる欠点なら改めるからって、すると先生は、お前に欠点なんかありゃしない、欠点はおれの方にあるだけだというんです。そういわれると、私悲しくなって仕様がないんです、涙が出てなおの事自分の悪い所が聞きたくなるんです」  奥さんは眼の中めた。  始め私にもない。奥さんの苦にする要点はここにあった。  奥さんは最初世の中を見る先生の眼が厭世的で包んで、そっと胸の奥にしまっておいた奥さんは、その晩その包みの中を私の前で開けて見せた。 「あなたどう思って?」と聞いた。「私からああなったのか、それともあなたのいう人世観」  私は何も隠す気はなかった。けれども私の知らないあるものがそこに存在しているとすれば、私の答えが何であろうと、それが奥さんを満足させるはずがなかった。そうして私はそこに私の知らないあるものがあると信じていた。 「私には解りません」  奥さんは予期の外に現わした。私はすぐ私の言葉を継ぎ足した。 「しかし先生が奥さんを嫌っていらっしゃらない事だけは保証します。私は先生自身の口から聞いた通りを奥さんに伝えるだけです。先生は嘘でしょう」  奥さんは何とも答えなかった。しばらくしてからこういった。 「実は私すこし思いあたる事があるんですけれども……」 「先生がああいう風についてですか」 「ええ。もしそれが源因だとすれば、私の責任だけはなくなるんだから、それだけでも私大変楽になれるんですが、……」 「どんな事ですか」  奥さんはいい渋って膝の上に置いた自分の手を眺めていた。 「あなた判断して下すって。いうから」 「私にできる判断ならやります」 「みんなはいえないのよ。みんないうと叱られるから。叱られないところだけよ」  私は緊張して唾液み込んだ。 「先生がまだ大学にいる時分、大変仲の好がちょうど卒業する少し前に死んだんです。急に死んだんです」  奥さんは私の耳に私語くような小さな声で、「実は変死したんです」といった。それは「どうして」と聞き返さずにはいられないようないい方であった。 「それっ切りしかいえないのよ。けれどもその事があってから後なんです。先生の性質が段々変って来たのは。なぜその方が死んだのか、私には解らないの。先生にもおそらく解っていないでしょう。けれどもそれから先生が変って来たと思えば、そう思われない事もないのよ」 「その人の墓ですか、雑司ヶ谷にあるのは」 「それもいわない事になってるからいいません。しかし人間は親友を一人亡くしただけで、そんなに変化できるものでしょうか。私はそれが知りたくって堪らないんです。だからそこを一つあなたに判断して頂きたいと思うの」  私の判断はむしろ否定の方に傾いていた。  私り付こうとした。  十時頃でもしていたとみえて、ついに出て来なかった。  先生はむしろ機嫌がよかった。しかし奥さんの調子はさらによかった。今しがた奥さんの美しい眼のうちに溜らな女性の遊戯と取れない事もなかった。もっともその時の私には奥さんをそれほど批評的に見る気は起らなかった。私は奥さんの態度の急に輝いて来たのを見て、むしろ安心した。これならばそう心配する必要もなかったんだと考え直した。  先生は笑いながら「どうもご苦労さま、泥棒は来ませんでしたか」と私に聞いた。それから「来ないんで張合が抜けやしませんか」といった。  帰る時、奥さんは「どうもお気の毒さま」と会釈した。その調子は忙しいところを暇を潰やかな町の方へ急いだ。  私はその晩の事を記憶のうちから抽として世の中に存在しているのだと自覚しつつ味わった。  秋が暮れて冬が来るまで格別の事もなかった。私は先生の宅の薬だぐらいの事をいっていた。 「こりゃ手織で針を二本折りましたわ」  こんな苦情をいう時ですら、奥さんは別に面倒くさいという顔をしなかった。  冬が来た時、私は偶然国へ帰らなければならない事になった。私の母から受け取った手紙の中に、父の病気の経過が面白くない様子を書いて、今が今という心配もあるまいが、年が年だから、できるなら都合して帰って来てくれと頼むように付け足してあった。  父はかねてから腎臓で医者からどうもそうではないらしい、やはり持病の結果だろうという判断を得て、始めて卒倒と腎臓病とを結び付けて考えるようになったのである。  冬休みが来るにはまだ少し間るだけの金を一時立て替えてもらう事にした。  先生は少し風邪の苦しくなるのを防いでいた。 「大病は好なものですね」といった先生は、苦笑しながら私の顔を見た。  先生は病気という病気をした事のない人であった。先生の言葉を聞いた私は笑いたくなった。 「私は風邪ぐらいなら我慢しますが、それ以上の病気は真平ります」 「そうかね。私は病気になるくらいなら、死病に罹りたいと思ってる」  私は先生のいう事に格別注意を払わなかった。すぐ母の手紙の話をして、金の無心を申し出た。 「そりゃ困るでしょう。そのくらいなら今手元にあるはずだから持って行きたまえ」  先生は奥さんを呼んで、必要の金額を私の前に並べさせてくれた。それを奥の茶箪笥に重ねて、「そりゃご心配ですね」といった。 「何遍も卒倒したんですか」と先生が聞いた。 「手紙には何とも書いてありませんが。――そんなに何度も引ッ繰り返るものですか」 「ええ」  先生の奥さんの母親という人も私の父と同じ病気で亡くなったのだという事が始めて私に解った。 「どうせむずかしいんでしょう」と私がいった。 「そうさね。私が代られれば代ってあげても好はあるんですか」 「どうですか、何とも書いてないから、大方ないんでしょう」 「吐気さえ来なければまだ大丈夫ですよ」と奥さんがいった。  私はその晩の汽車で東京を立った。  父の病気は思ったほど悪くはなかった。それでも着いた時は、床には父の挙動がさして虚勢を張っているようにも思えなかった。  私の兄はある職を帯びて遠い九州にいた。これは万一の事がある場合でなければ、容易に父母り出して、休み前に帰って来たという事が、父には大きな満足であった。 「これしきの病気に学校を休ませては気の毒だ。お母さんがあまり仰山な手紙を書くものだからいけない」  父は口ではこういった。こういったばかりでなく、今まで敷いていた床を上げさせて、いつものような元気を示した。 「あんまり軽はずみをしてまた逆回すといけませんよ」  私のこの注意を父は愉快そうにしかし極めて軽く受けた。 「なに大丈夫、これでいつものように要心さえしていれば」  実際父は大丈夫らしかった。家の中を自由に往来して、息も切れなければ、眩暈も感じなかった。ただ顔色だけは普通の人よりも大変悪かったが、これはまた今始まった症状でもないので、私たちは格別それを気に留めなかった。  私は先生に手紙を書いて恩借け加えた。私は先生の風邪を実際軽く見ていたので。  私はその手紙を出す時に決して先生の返事を予期していなかった。出した後で父や母と先生の噂かに先生の書斎を想像した。 「こんど東京へ行くときには椎茸でも持って行ってお上げ」 「ええ、しかし先生が干した椎茸なぞを食うかしら」 「旨いな人もないだろう」  私には椎茸と先生を結び付けて考えるのが変であった。  先生の返事が来た時、私はちょっと驚かされた。ことにその内容が特別の用件を含んでいなかった時、驚かされた。先生はただ親切ずくで、返事を書いてくれたんだと私は思った。そう思うと、その簡単な一本の手紙が私には大層な喜びになった。もっともこれは私が先生から受け取った第一の手紙には相違なかったが。  第一というと私と先生の間に書信の往復がたびたびあったように思われるが、事実は決してそうでない事をちょっと断わっておきたい。私は先生の生前にたった二通の手紙しか貰で書いた大変長いものである。  父は病気の性質として、運動を慎まなければならないので、床を上げてからも、ほとんど戸外に付いていた。私が心配して自分の肩へ手を掛けさせようとしても、父は笑って応じなかった。  私もあった。 「碁いね、こうして楽に差せるから。無精者には持って来いだ。もう一番やろう」  父は勝った時は必ずもう一番やろうといった。そのくせ負けた時にも、もう一番やろうといった。要するに、勝っても負けても、炬燵にあたって、将碁を差したがる男であった。始めのうちは珍しいので、この隠居を頭の上へ伸ばして、時々思い切ったあくびをした。  私は東京の事を考えた。そうして漲を聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた。  私は心のうちで、父と先生とを比較して見た。両方とも世間から見れば、生きているか死んでいるか分らないほど大人い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた。私は父が私の本当の父であり、先生はまたいうまでもなく、あかの他人であるという明白な事実を、ことさらに眼の前に並べてみて、始めて大きな真理でも発見したかのごとくに驚いた。  私がのつそつし出すと前後して、父や母の眼にも今まで珍しかった私が段々陳腐まった。私はつい面白くなくなった。早く東京へ帰りたくなった。  父の病気は幸い現状維持のままで、少しも悪い方へ進む模様は見えなかった。念のためにわざわざ遠くから相当の医者を招いたりして、慎重に診察してもらってもやはり私の知っている以外に異状は認められなかった。私は冬休みの尽きる少し前に国を立つ事にした。立つといい出すと、人情は妙なもので、父も母も反対した。 「もう帰るのかい、まだ早いじゃないか」と母がいった。 「まだ四、五日いても間に合うんだろう」と父がいった。  私は自分の極の日を動かさなかった。  東京へ帰ってみると、松飾はいつか取り払われていた。町は寒い風の吹くに任せて、どこを見てもこれというほどの正月めいた景気はなかった。  私らしい心を見せた。  二人とも父の病気について、色々掛念の問いを繰り返してくれた中に、先生はこんな事をいった。 「なるほど容体を聞くと、今が今どうという事もないようですが、病気が病気だからよほど気をつけないといけません」  先生は腎臓について私の知らない事を多く知っていた。 「自分で病気に罹る朝はもう死んでいたんです。しかも細君は夫が寝ているとばかり思ってたんだっていうんだから」  今まで楽天的に傾いていた私は急に不安になった。 「私の父もそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」 「医者は何というのです」 「医者は到底治らないというんです。けれども当分のところ心配はあるまいともいうんです」 「それじゃ好いでしょう。医者がそういうなら。私の今話したのは気が付かずにいた人の事で、しかもそれがずいぶん乱暴な軍人なんだから」  私はやや安心した。私の変化を凝と見ていた先生は、それからこう付け足した。 「しかし人間は健康にしろ病気にしろ、どっちにしても脆いものですね。いつどんな事でどんな死にようをしないとも限らないから」 「先生もそんな事を考えてお出ですか」 「いくら丈夫の私でも、満更考えない事もありません」  先生の口元には微笑の影が見えた。 「よくころりと死ぬ人があるじゃありませんか。自然に。それからあっと思う間に死ぬ人もあるでしょう。不自然な暴力で」 「不自然な暴力って何ですか」 「何だかそれは私にも解らないが、自殺する人はみんな不自然な暴力を使うんでしょう」 「すると殺されるのも、やはり不自然な暴力のお蔭ですね」 「殺される方はちっとも考えていなかった。なるほどそういえばそうだ」  その日はそれで帰った。帰ってからも父の病気はそれほど苦にならなかった。先生のいった自然に死ぬとか、不自然の暴力で死ぬとかいう言葉も、その場限りの浅い印象を与えただけで、後か手を着けようとしては手を引っ込めた卒業論文を、いよいよ本式に書き始めなければならないと思い出した。  その年の六月に卒業するはずの私める手数を省くために、ただ書物の中にある材料を並べて、それに相当な結論をちょっと付け加える事にした。  私の選択した問題は先生の専門と縁故の近いものであった。私がかつてその選択について先生の意見を尋ねた時、先生は好も私を指導する任に当ろうとしなかった。 「近頃はあんまり書物を読まないから、新しい事は知りませんよ。学校の先生に聞いた方が好いでしょう」  先生は一時非常の読書家であったが、その後どういう訳か、前ほどこの方面に興味が働かなくなったようだと、かつて奥さんから聞いた事があるのを、私はその時ふと思い出した。私は論文をよそにして、そぞろに口を開いた。 「先生はなぜ元のように書物に興味をもち得ないんですか」 「なぜという訳もありませんが。……つまりいくら本を読んでもそれほどえらくならないと思うせいでしょう。それから……」 「それから、まだあるんですか」 「まだあるというほどの理由でもないが、以前はね、人の前へ出たり、人に聞かれたりして知らないと恥のようにきまりが悪かったものだが、近頃は知らないという事が、それほどの恥でないように見え出したものだから、つい無理にも本を読んでみようという元気が出なくなったのでしょう。まあ早くいえば老い込んだのです」  先生の言葉はむしろ平静であった。世間に背中を向けた人の苦味えもなかった。私は先生を老い込んだとも思わない代りに、偉いとも感心せずに帰った。  それからの私はほとんど論文に祟でも掘り出す時のように背表紙の金文字をあさった。  梅が咲くにつけて寒い風は段々向がなかった。  私の枯れた幹から、つやつやしい茶褐色の葉が、柔らかそうに日光を映していたりするのが、道々私の眼を引き付けた。私は生れて初めてそんなものを見るような珍しさを覚えた。  先生は嬉でようやく済みました。もう何にもする事はありません」といった。  実際その時の私は、自分のなすべきすべての仕事がすでに結了ろうとする大きな自然の中に、先生を誘い出そうとした。 「先生どこかへ散歩しましょう。外へ出ると大変好い心持です」 「どこへ」  私はどこでも構わなかった。ただ先生を伴れて郊外へ出たかった。  一時間の後をしつつ自然に習い覚えた私は、この芝笛というものを鳴らす事が上手であった。私が得意にそれを吹きつづけると、先生は知らん顔をしてよそを向いて歩いた。  やがて若葉に鎖めて、「はいってみようか」といった。私はすぐ「植木屋ですね」と答えた。  植込に据えた大きな鉢の中に飼ってある金魚が動いていた。 「静かだね。断わらずにはいっても構わないだろうか」 「構わないでしょう」  二人はまた奥の方へ進んだ。しかしそこにも人影は見えなかった。躑躅でしょう」といった。  芍薬せてあった先生の帽子が風に吹かれて落ちた。  私きながら先生を呼んだ。 「先生帽子が落ちました」 「ありがとう」  身体を半分起してそれを受け取った先生は、起きるとも寝るとも片付かないその姿勢のままで、変な事を私に聞いた。 「突然だが、君の家には財産がよっぽどあるんですか」 「あるというほどありゃしません」 「まあどのくらいあるのかね。失礼のようだが」 「どのくらいって、山と田地が少しあるぎりで、金なんかまるでないんでしょう」  先生が私の家な問題を先生の前に持ち出すのをぶしつけとばかり思っていつでも控えていた。若葉の色で疲れた眼を休ませていた私の心は、偶然またその疑いに触れた。 「先生はどうなんです。どのくらいの財産をもっていらっしゃるんですか」 「私は財産家と見えますか」  先生は平生からむしろ質素な服装といえないまでも、あたじけなく切り詰めた無弾力性のものではなかった。 「そうでしょう」と私がいった。 「そりゃそのくらいの金はあるさ、けれども決して財産家じゃありません。財産家ならもっと大きな家でも造るさ」  この時先生は起き上って、縁台の上に胡坐に立てた。 「これでも元は財産家なんだがなあ」  先生の言葉は半分独いて行き損なった私は、つい黙っていた。 「これでも元は財産家なんですよ、君」といい直した先生は、次に私の顔を見て微笑した。私はそれでも何とも答えなかった。むしろ不調法で答えられなかったのである。すると先生がまた問題を他へ移した。 「あなたのお父さんの病気はその後どうなりました」  私は父の病気について正月以後何にも知らなかった。月々国から送ってくれる為替びを乱していなかった。 「何ともいって来ませんが、もう好いんでしょう」 「好ければ結構だが、――病症が病症なんだからね」 「やっぱり駄目ですかね。でも当分は持ち合ってるんでしょう。何ともいって来ませんよ」 「そうですか」  私は先生が私のうちの財産を聞いたり、私の父の病気を尋ねたりするのを、普通の談話――胸に浮かんだままをその通り口にする、普通の談話と思って聞いていた。ところが先生の言葉の底には両方を結び付ける大きな意味があった。先生自身の経験を持たない私は無論そこに気が付くはずがなかった。 「君のうちに財産があるなら、今のうちによく始末をつけてもらっておかないといけないと思うがね、余計なお世話だけれども。君のお父さんが達者なうちに、貰うものはちゃんと貰っておくようにしたらどうですか。万一の事があったあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから」 「ええ」  私は先生の言葉に大した注意を払わなかった。私の家庭でそんな心配をしているものは、私に限らず、父にしろ母にしろ、一人もないと私は信じていた。その上先生のいう事の、先生として、あまりに実際的なのに私は少し驚かされた。しかしそこは年長者に対する平生の敬意が私を無口にした。 「あなたのお父さんが亡くなられるのを、今から予想してかかるような言葉遣ったら許してくれたまえ。しかし人間は死ぬものだからね。どんなに達者なものでも、いつ死ぬか分らないものだからね」  先生の口気は珍しく苦々しかった。 「そんな事をちっとも気に掛けちゃいません」と私は弁解した。 「君の兄弟は何人でしたかね」と先生が聞いた。  先生はその上に私の家族の人数の様子を問いなどした。そうして最後にこういった。 「みんな善い人ですか」 「別に悪い人間というほどのものもいないようです。大抵田舎者ですから」 「田舎者はなぜ悪くないんですか」  私はこの追窮に苦しんだ。しかし先生は私に返事を考えさせる余裕さえ与えなかった。 「田舎者は都会のものより、かえって悪いくらいなものです。それから、君は今、君の親戚に入れたような悪人は世の中にあるはずがありませんよ。平生はみんな善人なんです。少なくともみんな普通の人間なんです。それが、いざという間際に、急に悪人に変るんだから恐ろしいのです。だから油断ができないんです」  先生のいう事は、ここで切れる様子もなかった。私はまたここで何かいおうとした。すると後え出した。先生も私も驚いて後ろを振り返った。  縁台の横から後部へ掛けて植え付けてある杉苗の傍って礼をした。 「叔父さん、はいって来る時、家もいなかったかい」と聞いた。 「誰もいなかったよ」 「姉さんやおっかさんが勝手の方にいたのに」 「そうか、いたのかい」 「ああ。叔父さん、今日かったのに」  先生は苦笑した。懐中を小供の手に握らせた。 「おっかさんにそういっとくれ。少しここで休まして下さいって」  小供は怜悧いて見せた。 「今斥候長になってるところなんだよ」  小供はこう断って、躑躅を高く巻いて小供の後を追い掛けた。しばらくすると同じくらいの年格好の小供が二、三人、これも斥候長の下りて行った方へ駈けていった。  先生の談話は、この犬と小供のために、結末まで進行する事ができなくなったので、私はついにその要領を得ないでしまった。先生の気にする財産云々には全くなかった。私の性質として、また私の境遇からいって、その時の私には、そんな利害の念に頭を悩ます余地がなかったのである。考えるとこれは私がまだ世間に出ないためでもあり、また実際その場に臨まないためでもあったろうが、とにかく若い私にはなぜか金の問題が遠くの方に見えた。  先生の話のうちでただ一つ底まで聞きたかったのは、人間がいざという間際に、誰でも悪人になるという言葉の意味であった。単なる言葉としては、これだけでも私に解らない事はなかった。しかし私はこの句についてもっと知りたかった。  犬と小供を吹き返した人のように立ち上がった。 「もう、そろそろ帰りましょう。大分日が永くなったようだが、やっぱりこう安閑としているうちには、いつの間にか暮れて行くんだね」  先生の背中には、さっき縁台の上に仰向がいっぱい着いていた。私は両手でそれを払い落した。 「ありがとう。脂がこびり着いてやしませんか」 「綺麗に落ちました」 「この羽織はつい此間られるからね。有難う」  二人はまただらだら坂の礼を述べた。  門口来た時、私はついに先生に向かって口を切った。 「さきほど先生のいわれた、人間は誰でもいざという間際に悪人になるんだという意味ですね。あれはどういう意味ですか」 「意味といって、深い意味もありません。――つまり事実なんですよ。理屈じゃないんだ」 「事実で差支えありませんが、私の伺いたいのは、いざという間際という意味なんです。一体どんな場合を指すのですか」  先生は笑い出した。あたかも時機に。 「金でもすぐ悪人になるのさ」  私には先生の返事があまりに平凡過ぎて詰れがちになった。先生はあとから「おいおい」と声を掛けた。 「そら見たまえ」 「何をですか」 「君の気分だって、私の返事一つですぐ変るじゃないか」  待ち合わせるために振り向いて立まった私の顔を見て、先生はこういった。  その時の私になった。何とかいって一つ先生をやっ付けてみたくなって来た。 「先生」 「何ですか」 「先生はさっき少し昂奮に見た事がないんですが、今日は珍しいところを拝見したような気がします」  先生はすぐ返事をしなかった。私はそれを手応をまくって小便をした。私は先生が用を足す間ぼんやりそこに立っていた。 「やあ失敬」  先生はこういってまた歩き出した。私はとうとう先生をやり込める事を断念した。私たちの通る道は段々賑りをした時、私は実際それを忘れていた。 「私は先刻そんなに昂奮したように見えたんですか」 「そんなにというほどでもありませんが、少し……」 「いや見えても構わない。実際昂奮するんだから。私は財産の事をいうときっと昂奮するんです。君にはどう見えるか知らないが、私はこれで大変執念深い男なんだから。人から受けた屈辱や損害は、十年たっても二十年たっても忘れやしないんだから」  先生の言葉は元よりもなお昂奮していた。しかし私の驚いたのは、決してその調子ではなかった。むしろ先生の言葉が私の耳に訴える意味そのものであった。先生の口からこんな自白を聞くのは、いかな私にも全くの意外に相違なかった。私は先生の性質の特色として、こんな執着力を突いてみようとした私は、この言葉の前に小さくなった。先生はこういった。 「私は他をしずにいる。考えると私は個人に対する復讐以上の事を現にやっているんだ。私は彼らを憎むばかりじゃない、彼らが代表している人間というものを、一般に憎む事を覚えたのだ。私はそれで沢山だと思う」  私は慰藉の言葉さえ口へ出せなかった。  その日の談話もついにこれぎりで発展せずにしまった。私して、先へ進む気が起らなかったのである。  二人は市の外していなかった。  私は思想上の問題について、大いなる利益を先生から受けた事を自白する。しかし同じ問題について、利益を受けようとしても、受けられない事が間々に残った。  無遠慮な私は、ある時ついにそれを先生の前に打ち明けた。先生は笑っていた。私はこういった。 「頭が鈍くて要領を得ないのは構いませんが、ちゃんと解ってるくせに、はっきりいってくれないのは困ります」 「私は何にも隠してやしません」 「隠していらっしゃいます」 「あなたは私の思想とか意見とかいうものと、私の過去とを、ごちゃごちゃに考えているんじゃありませんか。私は貧弱な思想家ですけれども、自分の頭で纏くあなたの前に物語らなくてはならないとなると、それはまた別問題になります」 「別問題とは思われません。先生の過去が生み出した思想だから、私は重きを置くのです。二つのものを切り離したら、私にはほとんど価値のないものになります。私は魂の吹き込まれていない人形を与えられただけで、満足はできないのです」  先生はあきれたといった風えた。 「あなたは大胆だ」 「ただ真面目なんです。真面目に人生から教訓を受けたいのです」 「私の過去を訐いてもですか」  訐くという言葉が、突然恐ろしい響かった。 「あなたは本当に真面目なんですか」と先生が念を押した。「私は過去の因果を信用して死にたいと思っている。あなたはそのたった一人になれますか。なってくれますか。あなたははらの底から真面目ですか」 「もし私の命が真面目なものなら、私の今いった事も真面目です」  私の声は顫えた。 「よろしい」と先生がいった。「話しましょう。私の過去を残らず、あなたに話して上げましょう。その代り……。いやそれは構わない。しかし私の過去はあなたに取ってそれほど有益でないかも知れませんよ。聞かない方が増かも知れませんよ。それから、――今は話せないんだから、そのつもりでいて下さい。適当の時機が来なくっちゃ話さないんだから」  私は下宿へ帰ってからも一種の圧迫を感じた。  私の論文は自分が評価していたほどに、教授の眼にはよく見えなかったらしい。それでも私は予定通り及第した。卒業式の日、私は黴臭を持て余した。しばらく立っているうちに手に持ったハンケチがぐしょぐしょになった。  私は式が済むとすぐ帰って裸体の真中に寝そべった。私は寝ながら自分の過去を顧みた。また自分の未来を想像した。するとその間に立って一区切りを付けているこの卒業証書なるものが、意味のあるような、また意味のないような変な紙に思われた。  私はその晩先生の家へ御馳走わずに、先生の食卓で済ますという前からの約束であった。  食卓は約束通り座敷の縁なものに限られていた。 「カラやカフスと同じ事さ。汚れたのを用いるくらいなら、一層い。白ければ純白でなくっちゃ」  こういわれてみると、なるほど先生は潔癖であった。書斎なども実に整然な私には、先生のそういう特色が折々著しく眼に留まった。 「先生は癇性く通じないらしかった。  その晩私は先生と向い合せに、例の白い卓布り庭の方を正面にして席を占めた。 「お目出とう」といって、先生が私のために杯み取る事ができなかった。先生の笑いは、「世間はこんな場合によくお目出とうといいたがるものですね」と私に物語っていた。  奥さんは私に「結構ね。さぞお父さんはお喜びでしょう」といってくれた。私は突然病気の父の事を考えた。早くあの卒業証書を持って行って見せてやろうと思った。 「先生の卒業証書はどうしました」と私が聞いた。 「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」と先生が奥さんに聞いた。 「ええ、たしかしまってあるはずですが」  卒業証書の在処は二人ともよく知らなかった。  飯を奥さんの前へ出すのが、何でもなくなった。 「お茶? ご飯? ずいぶんよく食べるのね」  奥さんの方でも思い切って遠慮のない事をいうことがあった。しかしその日は、時候が時候なので、そんなに調戯われるほど食欲が進まなかった。 「もうおしまい。あなた近頃になったのね」 「小食になったんじゃありません。暑いんで食われないんです」  奥さんは下女を呼んで食卓を片付けさせた後へ、改めてアイスクリームと水菓子を運ばせた。 「これは宅えたのよ」  用のない奥さんには、手製のアイスクリームを客に振舞えてもらった。 「君もいよいよ卒業したが、これから何をする気ですか」と先生が聞いた。先生は半分縁側の方へ席をずらして、敷居際たせていた。  私にはただ卒業したという自覚があるだけで、これから何をしようという目的?」とまた聞かれた。私も先生も笑い出した。 「本当いうと、まだ何をする考えもないんです。実は職業というものについて、全く考えた事がないくらいなんですから。だいちどれが善らないんだから、選択に困る訳だと思います」 「それもそうね。けれどもあなたは必竟な事をいっていられるのよ。これが困る人でご覧なさい。なかなかあなたのように落ち付いちゃいられないから」  私の友達には卒業しない前から、中学教師の口を探している人があった。私は腹の中で奥さんのいう事実を認めた。しかしこういった。 「少し先生にかぶれたんでしょう」 「碌なかぶれ方をして下さらないのね」  先生は苦笑した。 「かぶれても構わないから、その代りこの間いった通り、お父さんの生きてるうちに、相当の財産を分けてもらってお置きなさい。それでないと決して油断はならない」  私は先生といっしょに、郊外の植木屋の広い庭の奥で話した、あの躑躅い言葉であった。けれども事実を知らない私には同時に徹底しない言葉でもあった。 「奥さん、お宅の財産はよッぽどあるんですか」 「何だってそんな事をお聞きになるの」 「先生に聞いても教えて下さらないから」  奥さんは笑いながら先生の顔を見た。 「教えて上げるほどないからでしょう」 「でもどのくらいあったら先生のようにしていられるか、宅へ帰って一つ父に談判する時の参考にしますから聞かして下さい」  先生は庭の方を向いて、澄まして烟草を吹かしていた。相手は自然奥さんでなければならなかった。 「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうか暮してゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでも宜さらなくっちゃ本当にいけませんよ。先生のようにごろごろばかりしていちゃ……」 「ごろごろばかりしていやしないさ」  先生はちょっと顔だけ向け直して、奥さんの言葉を否定した。  私いの言葉を述べた。 「また当分お目にかかれませんから」 「九月には出ていらっしゃるんでしょうね」  私はもう卒業したのだから、必ず九月に出て来る必要もなかった。しかし暑い盛りの八月を東京まで来て送ろうとも考えていなかった。私には位置を求めるための貴重な時間というものがなかった。 「まあ九月頃になるでしょう」 「じゃずいぶんご機嫌でも送って上げましょう」 「どちらの見当です。もしいらっしゃるとすれば」  先生はこの問答をにやにや笑って聞いていた。 「何まだ行くとも行かないとも極めていやしないんです」  席を立とうとした時、先生は急に私をつらまえて、「時にお父さんの病気はどうなんです」と聞いた。私は父の健康についてほとんど知るところがなかった。何ともいって来ない以上、悪くはないのだろうくらいに考えていた。 「そんなに容易なんだから」  尿毒症という言葉も意味も私には解らなかった。この前の冬休みに国で医者と会見した時に、私はそんな術語をまるで聞かなかった。 「本当に大事にしてお上げなさいよ」と奥さんもいった。「毒が脳へ廻るようになると、もうそれっきりよ、あなた。笑い事じゃないわ」  無経験な私は気味を悪がりながらも、にやにやしていた。 「どうせ助からない病気だそうですから、いくら心配したって仕方がありません」 「そう思い切りよく考えれば、それまでですけれども」  奥さんは昔同じ病気で死んだという自分のお母さんの事でも憶い出したのか、沈んだ調子でこういったなり下を向いた。私も父の運命が本当に気の毒になった。  すると先生が突然奥さんの方を向いた。 「静、お前はおれより先へ死ぬだろうかね」 「なぜ」 「なぜでもない、ただ聞いてみるのさ。それとも己が後へ残るのが当り前のようになってるね」 「そう極はどうしても、そら年が上でしょう」 「だから先へ死ぬという理屈なのかね。すると己もお前より先にあの世へ行かなくっちゃならない事になるね」 「あなたは特別よ」 「そうかね」 「だって丈夫なんですもの。ほとんど煩がないじゃありませんか。そりゃどうしたって私の方が先だわ」 「先かな」 「え、きっと先よ」  先生は私の顔を見た。私は笑った。 「しかしもしおれの方が先へ行くとするね。そうしたらお前どうする」 「どうするって……」  奥さんはそこで口籠えていた。 「どうするって、仕方がないわ、ねえあなた。老少不定っていうくらいだから」  奥さんはことさらに私の方を見て笑談らしくこういった。  私は立て掛けた腰をまたおろして、話の区切りの付くまで二人の相手になっていた。 「君はどう思います」と先生が聞いた。  先生が先へ死ぬか、奥さんが早く亡くなるか、固より私に判断のつくべき問題ではなかった。私はただ笑っていた。 「寿命は分りませんね。私にも」 「こればかりは本当に寿命ですからね。生れた時にちゃんと極じよ、あなた、亡くなったのが」 「亡くなられた日がですか」 「まさか日まで同じじゃないけれども。でもまあ同じよ。だって続いて亡くなっちまったんですもの」  この知識は私にとって新しいものであった。私は不思議に思った。 「どうしてそう一度に死なれたんですか」  奥さんは私の問いに答えようとした。先生はそれを遮った。 「そんな話はお止しよ。つまらないから」  先生は手に持った団扇をわざとばたばたいわせた。そうしてまた奥さんを顧みた。 「静をお前にやろう」  奥さんは笑い出した。 「ついでに地面も下さいよ」 「地面は他なお前にやるよ」 「どうも有難う。けれども横文字の本なんか貰っても仕様がないわね」 「古本屋に売るさ」 「売ればいくらぐらいになって」  先生はいくらともいわなかった。けれども先生の話は、容易に自分の死という遠い問題を離れなかった。そうしてその死は必ず奥さんの前に起るものと仮定されていた。奥さんも最初のうちは、わざとたわいのない受け答えをしているらしく見えた。それがいつの間にか、感傷的な女の心を重苦しくした。 「おれが死んだら、おれが死んだらって、まあ何遍でもない。あなたが死んだら、何でもあなたの思い通りにして上げるから、それで好いじゃありませんか」  先生は庭の方を向いて笑った。しかしそれぎり奥さんの厭がる事をいわなくなった。私もあまり長くなるので、すぐ席を立った。先生と奥さんは玄関まで送って出た。 「ご病人をお大事に」と奥さんがいった。 「また九月に」と先生がいった。  私は挨拶していた玄関の電燈がふっと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へはいったらしかった。私は一人暗い表へ出た。  私はすぐ下宿へは戻らなかった。国へ帰る前に調を聞かされた。私の下宿へ帰ったのは十二時過ぎであった。  私を憎らしく思った。  私はこの一夏す覚悟でいた。私は自分に関係の深い部門の書籍棚の前に立って、隅から隅まで一冊ずつ点検して行った。  買物のうちで一番私を困らせたのは女の半襟わさなかったかを悔いた。  私は鞄として訴えたのである。  私は暇乞りであるというような感傷的な文句さえ使った。私は実際心に浮ぶままを書いた。けれども書いたあとの気分は書いた時とは違っていた。  私はそうした矛盾を汽車の中で考えた。考えているうちに自分が自分に気の変りやすい軽薄もののように思われて来た。私は不愉快になった。私はまた先生夫婦の事を想い出した。 「どっちが先へ死ぬだろう」  私はその晩先生と奥さんの間に起った疑問をひとり口の内で繰り返してみた。そうしてこの疑問には誰も自信をもって答える事ができないのだと思った。しかしどっちが先へ死ぬと判然ないものに観じた。人間のどうする事もできない持って生れた軽薄を、果敢ないものに観じた。  宅へ帰って案外に思ったのは、父の元気がこの前見た時と大して変っていない事であった。 「ああ帰ったかい。そうか、それでも卒業ができてまあ結構だった。ちょっとお待ち、今顔を洗って来るから」  父は庭へ出て何かしていたところであった。古い麦藁帽って行った。  学校を卒業するのを普通の人間として当然のように考えていた私は、それを予期以上に喜んでくれる父の前に恐縮した。 「卒業ができてまあ結構だ」  父はこの言葉を何遍いところに不快を感じ出した。 「大学ぐらい卒業したって、それほど結構でもありません。卒業するものは毎年何百人だってあります」  私はついにこんな口の利きようをした。すると父が変な顔をした。 「何も卒業したから結構とばかりいうんじゃない。そりゃ卒業は結構に違いないが、おれのいうのはもう少し意味があるんだ。それがお前に解っていてくれさえすれば、……」  私は父からその後を聞こうとした。父は話したくなさそうであったが、とうとうこういった。 「つまり、おれが結構という事になるのさ。おれはお前の知ってる通りの病気だろう。去年の冬お前に会った時、ことによるともう三月が大学を卒業したぐらいで、結構だ結構だといわれるのは余り面白くもないだろう。しかしおれの方から見てご覧、立場が少し違っているよ。つまり卒業はお前に取ってより、このおれに取って結構なんだ。解ったかい」  私は一言した。 「こんなものは巻いたなり手に持って来るものだ」 「中に心から注意した。  父はしばらくそれを眺いを得て倒れようとした。  私へ呼んで父の病状を尋ねた。 「お父さんはあんなに元気そうに庭へ出たり何かしているが、あれでいいんですか」 「もう何ともないようだよ。大方好くおなりなんだろう」  母は案外平気であった。都会から懸いた。 「でも医者はあの時到底むずかしいって宣告したじゃありませんか」 「だから人間の身体のいう事なんか、聞きそうにもなさらないんだからね」  私はこの前帰った時、無理に床は」などと聞いた。  私は仕方がないから、母をそのままにしておいて直接父に向かった。父は私の注意を母よりは真面目く心得ているはずだからね」といった。それを聞いた母は苦笑した。「それご覧な」といった。 「でも、あれでお父さんは自分でちゃんと覚悟だけはしているんですよ。今度私が卒業して帰ったのを大変喜んでいるのも、全くそのためなんです。生きてるうちに卒業はできまいと思ったのが、達者なうちに免状を持って来たから、それが嬉しいんだって、お父さんは自分でそういっていましたぜ」 「そりゃ、お前、口でこそそうおいいだけれどもね。お腹のだよ」 「そうでしょうか」 「まだまだ十年も二十年も生きる気でお出のだよ。もっとも時々はわたしにも心細いような事をおいいだがね。おれもこの分じゃもう長い事もあるまいよ、おれが死んだら、お前はどうする、一人でこの家にいる気かなんて」  私は急に父がいなくなって母一人が取り残された時の、古い広い田舎家うものは、分けて貰って置けという注意を、偶然思い出した。 「なにね、自分で死ぬ死ぬっていう人に死んだ試さ」  私は理屈から出たとも統計から来たとも知れない、この陳腐と聞いていた。  私にそれを恐れていた。私はすぐ断わった。 「あんまり仰山してください」  私は田舎な人を集めて騒ぐのは止せともいいかねた。それで私はただあまり仰山だからとばかり主張した。 「仰山仰山とおいいだが、些でない」  母は私が大学を卒業したのを、ちょうど嫁でも貰ったと同じ程度に、重く見ているらしかった。 「呼ばなくっても好いが、呼ばないとまた何とかいうから」  これは父の言葉であった。父は彼らの陰口を気にしていた。実際彼らはこんな場合に、自分たちの予期通りにならないと、すぐ何とかいいたがる人々であった。 「東京と違って田舎は蒼蠅いからね」  父はこうもいった。 「お父さんの顔もあるんだから」と母がまた付け加えた。  私は我いようにしたらと思い出した。 「つまり私のためなら、止なら、そりゃまた別です。あなたがたに不利益な事を私が強いて主張したって仕方がありません」 「そう理屈をいわれると困る」  父は苦い顔をした。 「何もお前のためにするんじゃないとお父さんがおっしゃるんじゃないけれども、お前だって世間への義理ぐらいは知っているだろう」  母はこうなると女だけにしどろもどろな事をいった。その代り口数からいうと、父と私を二人寄せてもなかなか敵うどころではなかった。 「学問をさせると人間がとかく理屈っぽくなっていけない」  父はただこれだけしかいわなかった。しかし私はこの簡単な一句のうちに、父が平生ったところに気が付かずに、父の不平の方ばかりを無理のように思った。  父はその夜めた。  その日取りのまだ来ないうちに、ある大きな事が起った。それは明治天皇のごとくに吹き払った。 「まあ、ご遠慮申した方がよかろう」  眼鏡い出したりした。  小勢を一枚一枚にまくって行く方が、気に張りがあって心持よく勉強ができた。  私はややともすると机にもたれて仮寝いた。  私は筆を執しかった。そうして先生から返事の来るのを予期してかかった。しかしその返事はついに来なかった。  父はこの前の冬に帰って来た時ほど将棋がらをわざわざ私のいる所へ持って来てくれた。 「おいご覧、今日も天子さまの事が詳しく出ている」  父は陛下のことを、つねに天子さまといっていた。 「勿体ない話だが、天子さまのご病気も、お父さんのとまあ似たものだろうな」  こういう父の顔には深い掛念れるか分らないという心配がひらめいた。 「しかし大丈夫だろう。おれのような下らないものでも、まだこうしていられるくらいだから」  父は自分の達者な保証を自分で与えながら、今にも己れに落ちかかって来そうな危険を予感しているらしかった。 「お父さんは本当に病気を怖がってるんですよ。お母さんのおっしゃるように、十年も二十年も生きる気じゃなさそうですぜ」  母は私の言葉を聞いて当惑そうな顔をした。 「ちょっとまた将棋でも差すように勧めてご覧な」  私は床の間から将棋盤を取りおろして、ほこりを拭いた。  父の元気は次第に衰えて行った。私り込むようになると、やはり元の方が達者だったのだという気が起った。私は父の健康についてよく母と話し合った。 「まったく気のせいだよ」と母がいった。母の頭は陛下の病と父の病とを結び付けて考えていた。私にはそうばかりとも思えなかった。 「気じゃない。本当に身体が悪かないんでしょうか。どうも気分より健康の方が悪くなって行くらしい」  私はこういって、心のうちでまた遠くから相当の医者でも呼んで、一つ見せようかしらと思案した。 「今年の夏はお前も詰もあの通りだし。それに天子様のご病気で。――いっその事、帰るすぐにお客でも呼ぶ方が好かったんだよ」  私が帰ったのは七月の五、六日で、父や母が私の卒業を祝うために客を呼ぼうといいだしたのは、それから一週間後で好もしくない社交上の苦痛から救われたも同じ事であったが、私を理解しない母は少しもそこに気が付いていないらしかった。  崩御の報知が伝えられた時、父はその新聞を手にして、「ああ、ああ」といった。 「ああ、ああ、天子様もとうとうおかくれになる。己も……」  父はその後をいわなかった。  私は黒いうすものを買うために町へ出た。それで旗竿趣が違っていますかね」と聞かれた事を思い出した。私は自分の生れたこの古い家を、先生に見せたくもあった。また先生に見せるのが恥ずかしくもあった。  私はまた一人家のなかへはいった。自分の机の置いてある所へ来て、新聞を読みながら、遠い東京の有様を想像した。私の想像は日本一の大きな都が、どんなに暗いなかでどんなに動いているだろうかの画面に集められた。私はその黒いなりに動かなければ仕末のつかなくなった都会の、不安でざわざわしているなかに、一点の燈火のごとくに先生の家を見た。私はその時この燈火が音のしない渦より気が付かなかった。  私は今度の事件について先生に手紙を書こうかと思って、筆を執いと思うのであった。  八月の半かろうと書いた。  私は返事を出した後で、父と母にその話をした。二人とも私の断った事に異存はないようであった。 「そんな所へ行かないでも、まだ好い口があるだろう」  こういってくれる裏に、私は二人が私に対してもっている過分な希望を読んだ。迂闊な父や母は、不相当な地位と収入とを卒業したての私から期待しているらしかったのである。 「相当の口って、近頃い口はなかなかあるものじゃありません。ことに兄さんと私とは専門も違うし、時代も違うんだから、二人を同じように考えられちゃ少し困ります」 「しかし卒業した以上は、少なくとも独立してやって行ってくれなくっちゃこっちも困る。人からあなたの所のご二男ですかと聞かれた時に返事ができないようじゃ、おれも肩身が狭いから」  父は渋面としていた。 「お前のよく先生先生という方にでもお願いしたら好いじゃないか。こんな時こそ」  母はこうより外に先生を解釈する事ができなかった。その先生は私に国へ帰ったら父の生きているうちに早く財産を分けて貰えと勧める人であった。卒業したから、地位の周旋をしてやろうという人ではなかった。 「その先生は何をしているのかい」と父が聞いた。 「何にもしていないんです」と私が答えた。  私はとくの昔から先生の何もしていないという事を父にも母にも告げたつもりでいた。そうして父はたしかにそれを記憶しているはずであった。 「何もしていないというのは、またどういう訳かね。お前がそれほど尊敬するくらいな人なら何かやっていそうなものだがね」  父はこういって、私を諷やくざだから遊んでいるのだと結論しているらしかった。 「おれのような人間だって、月給こそ貰っちゃいないが、これでも遊んでばかりいるんじゃない」  父はこうもいった。私はそれでもまだ黙っていた。 「お前のいうような偉い方なら、きっと何か口を探して下さるよ。頼んでご覧なのかい」と母が聞いた。 「いいえ」と私は答えた。 「じゃ仕方がないじゃないか。なぜ頼まないんだい。手紙でも好いからお出しな」 「ええ」  私は生返事をして席を立った。  父は明らかに自分の病気を恐れていた。しかし医者の来るたびに蒼蠅でもなかった。医者の方でもまた遠慮して何ともいわなかった。  父は死後の事を考えているらしかった。少なくとも自分がいなくなった後を想像して見るらしかった。 「小供へ帰って来ない。これじゃ手もなく親子を隔離するために学問させるようなものだ」  学問をした結果兄は今遠国しいに違いなかった。  わが家でまた東京へ出られるのを喜んだ。  私は父や母の手前、この地位をできるだけの努力で求めつつあるごとくに装おわなくてはならなかった。私は先生に手紙を書いて、家の事情を精しく述べた。もし自分の力でできる事があったら何でもするから周旋してくれと頼んだ。私は先生が私の依頼に取り合うまいと思いながらこの手紙を書いた。また取り合うつもりでも、世間の狭い先生としてはどうする事もできまいと思いながらこの手紙を書いた。しかし私は先生からこの手紙に対する返事がきっと来るだろうと思って書いた。  私はそれを封じて出す前に母に向かっていった。 「先生に手紙を書きましたよ。あなたのおっしゃった通り。ちょっと読んでご覧なさい」  母は私の想像したごとくそれを読まなかった。 「そうかい、それじゃ早くお出し。そんな事は他が気を付けないでも、自分で早くやるものだよ」  母は私をまだ子供のように思っていた。私も実際子供のような感じがした。 「しかし手紙じゃ用は足りませんよ。どうせ、九月にでもなって、私が東京へ出てからでなくっちゃ」 「そりゃそうかも知れないけれども、またひょっとして、どんな好い口がないとも限らないんだから、早く頼んでおくに越した事はないよ」 「ええ。とにかく返事は来るに極ってますから、そうしたらまたお話ししましょう」  私はこんな事に掛けて几帳面もなかった。 「大方どこかへ避暑にでも行っているんでしょう」  私は母に向かって言訳いても何かの事情を仮定して先生の態度を弁護しなければ不安になった。  私は時々父の病気を忘れた。いっそ早く東京へ出てしまおうかと思ったりした。その父自身もおのれの病気を忘れる事があった。未来を心配しながら、未来に対する所置は一向取らなかった。私はついに先生の忠告通り財産分配の事を父にいい出す機会を得ずに過ぎた。  九月始めになって、私はいよいよまた東京へ出ようとした。私は父に向かって当分今まで通り学資を送ってくれるようにと頼んだ。 「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃる通りの地位が得られるものじゃないですから」  私は父の希望する地位を得るために東京へ行くような事をいった。 「無論口の見付かるまでで好いですから」ともいった。  私は心のうちで、その口は到底私の頭の上に落ちて来ないと思っていた。けれども事情にうとい父はまたあくまでもその反対を信じていた。 「そりゃ僅の世話になんぞなるものじゃないんだから。今の若いものは、金を使う道だけ心得ていて、金を取る方は全く考えていないようだね」  父はこの外をいった。その中には、「昔の親は子に食わせてもらったのに、今の親は子に食われるだけだ」などという言葉があった。それらを私はただ黙って聞いていた。  小言が一通り済んだと思った時、私は静かに席を立とうとした。父はいつ行くかと私に尋ねた。私には早いだけが好かった。 「お母さんに日を見てもらいなさい」 「そうしましょう」  その時の私は父の前に存外めた。 「お前が東京へ行くと宅いが、この様子じゃいつ急にどんな事がないともいえないよ」  私はできるだけ父を慰めて、自分の机を置いてある所へ帰った。私は取り散らした書物の間に坐み込むように感ぜられた。私はそんな時にはいつも動かずに、一人で一人を見詰めていた。  私の哀愁はこの夏帰省した以後次第に情調を変えて来た。油蝉の声がつくつく法師の声に変るごとくに、私を取り巻く人の運命が、大きな輪廻りやすかった。  私はほとんど父のすべても知り尽めた。  私ばかりの夜食を済ました。  翌日めるのも聞かずに歩いて便所へ行ったりした。 「もう大丈夫」  父は去年の暮倒れた時に私に向かっていったと同じ言葉をまた繰り返した。その時ははたして口でいった通りまあ大丈夫であった。私は今度もあるいはそうなるかも知れないと思った。しかし医者はただ用心が肝要だと注意するだけで、念を押しても判然の日が来てもついに東京へ立つ気が起らなかった。 「もう少し様子を見てからにしましょうか」と私は母に相談した。 「そうしておくれ」と母が頼んだ。  母は父が庭へ出たり背戸んだりした。 「お前は今日東京へ行くはずじゃなかったか」と父が聞いた。 「ええ、少し延ばしました」と私が答えた。 「おれのためにかい」と父が聞き返した。  私はちょっと躊躇した。そうだといえば、父の病気の重いのを裏書きするようなものであった。私は父の神経を過敏にしたくなかった。しかし父は私の心をよく見抜いているらしかった。 「気の毒だね」といって、庭の方を向いた。  私は自分の部屋にはいって、そこに放り出された行李を眺めた。行李はいつ持ち出しても差支られたままであった。私はぼんやりその前に立って、また縄を解こうかと考えた。  私は坐ったまま腰を浮かした時の落ち付かない気分で、また三、四日を過ごした。すると父がまた卒倒した。医者は絶対に安臥を命じた。 「どうしたものだろうね」と母が父に聞こえないような小さな声で私にいった。母の顔はいかにも心細そうであった。私は兄と妹のものが、注意しても容易にいう事を聞かなかった。 「どうせ死ぬんだから、旨いものでも食って死ななくっちゃ」  私には旨いものという父の言葉が滑稽んだ。 「どうしてこう渇に丈夫の所があるのかも知れないよ」  母は失望していいところにかえって頼みを置いた。そのくせ病気の時にしか使わない渇くという昔風の言葉を、何でも食べたがる意味に用いていた。  伯父な理由であったが、母や私が、食べたいだけ物を食べさせないという不平を訴えるのも、その目的の一つであったらしい。  父の病気は同じような状態で一週間以上つづいた。私だろうと思った。それで両方へいよいよという場合には電報を打つから出て来いという意味を書き込めた。  兄は忙しい職にいた。妹は妊娠中であった。だから父の危険が眼の前に逼かった。私は電報を掛ける時機について、人の知らない責任を感じた。 「そう判然りした事になると私にも分りません。しかし危険はいつ来るか分らないという事だけは承知していて下さい」  停車場する白い服を着た女を見て変な顔をした。  父は死病に罹っている事をとうから自覚していた。それでいて、眼前にせまりつつある死そのものには気が付かなかった。 「今に癒東京へ遊びに行ってみよう。人間はいつ死ぬか分らないからな。何でもやりたい事は、生きてるうちにやっておくに限る」  母は仕方なしに「その時は私もいっしょに伴れて行って頂きましょう」などと調子を合せていた。  時とするとまた非常に淋しがった。 「おれが死んだら、どうかお母さんを大事にしてやってくれ」  私はこの「おれが死んだら」という言葉に一種の記憶をもっていた。東京を立つ時、先生が奥さんに向かって何遍い出した。あの時の「おれが死んだら」は単純な仮定であった。今私が聞くのはいつ起るか分らない事実であった。私は先生に対する奥さんの態度を学ぶ事ができなかった。しかし口の先では何とか父を紛らさなければならなかった。 「そんな弱い事をおっしゃっちゃいけませんよ。今に癒一分もないといっていいくらいです」  私は仕方がないからいわないでいい事まで喋舌った。父はまた、満足らしくそれを聞いていた。  病人があるので自然家せていないじゃないか」などといって帰るものがあった。私の帰った当時はひっそりし過ぎるほど静かであった家庭が、こんな事で段々ざわざわし始めた。  その中に動かずにいる父の病気は、ただ面白くない方へ移って行くばかりであった。私は母や伯父した時に流産したので、今度こそは癖にならないように大事を取らせるつもりだと、かねていい越したその夫は、妹の代りに自分で出て来るかも知れなかった。  こうした落ち付きのない間にも、私え付けられた。  私はこの不快の裏めた。  私が父の枕元を離れて、独り取り乱した書物の中に腕組みをしているところへ母が顔を出した。 「少し午眠れるだろう」  母は私の気分を了解していなかった。私も母からそれを予期するほどの子供でもなかった。私は単簡の入口に立っていた。 「お父さんは?」と私が聞いた。 「今よく寝てお出だよ」と母が答えた。  母は突然はいって来て私の傍った。 「先生からまだ何ともいって来ないかい」と聞いた。  母はその時の私の言葉を信じていた。その時の私は先生からきっと返事があると母に保証した。しかし父や母の希望するような返事が来るとは、その時の私もまるで期待しなかった。私は心得があって母を欺いたと同じ結果に陥った。 「もう一遍手紙を出してご覧な」と母がいった。  役に立たない手紙を何通書こうと、それが母の慰安になるなら、手数を厭えないのも、あるいはそうした訳からじゃないかしらという邪推もあった。 「手紙を書くのは訳はないですが、こういう事は郵便じゃとても埒らなくっちゃ」 「だってお父さんがあの様子じゃ、お前、いつ東京へ出られるか分らないじゃないか」 「だから出やしません。癒るとも癒らないとも片付かないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」 「そりゃ解ちらかしておいて、誰が勝手に東京へなんか行けるものかね」  私は始め心のなかで、何も知らない母を憐った。その時「実はね」と母がいい出した。 「実はお父さんの生きてお出かなら気も慥かなんだから、ああしてお出のうちに喜ばして上げるように親孝行をおしな」  憐れな私は親孝行のできない境遇にいた。私はついに一行の手紙も先生に出さなかった。  兄が帰って来た時、父は寝ながら新聞を読んでいた。父は平生いては反対せずに、なるべく病人の思い通りにさせておいた。 「そういう元気なら結構なものだ。よっぽど悪いかと思って来たら、大変好いようじゃありませんか」  兄はこんな事をいいながら父と話をした。その賑して私と差し向いになった時は、むしろ沈んでいた。 「新聞なんか読ましちゃいけなかないか」 「私もそう思うんだけれども、読まないと承知しないんだから、仕様がない」  兄は私の弁解を黙って聞いていた。やがて、「よく解っているように観察したらしい。 「そりゃ慥って色々話してみたが、調子の狂ったところは少しもないです。あの様子じゃことによるとまだなかなか持つかも知れませんよ」  兄と前後して着いた妹えない」ともいっていた。  乃木大将の死んだ時も、父は一番さきに新聞でそれを知った。 「大変だ大変だ」といった。  何事も知らない私たちはこの突然な言葉に驚かされた。 「あの時はいよいよ頭が変になったのかと思って、ひやりとした」と後で兄が私にいった。「私も実は驚きました」と妹の夫も同感らしい言葉つきであった。  その頃をしたその夫人の姿を忘れる事ができなかった。  悲痛な風が田舎の隅まで吹いて来て、眠たそうな樹えるような所では、一通の電報すら大事件であった。それを受け取った母は、はたして驚いたような様子をして、わざわざ私を人のいない所へ呼び出した。 「何だい」といって、私の封を開くのを傍に立って待っていた。  電報にはちょっと会いたいが来られるかという意味が簡単に書いてあった。私は首を傾けた。 「きっとお頼もうしておいた口の事だよ」と母が推断してくれた。  私もあるいはそうかも知れないと思った。しかしそれにしては少し変だとも考えた。とにかく兄や妹の悪い時は仕方のないものだね」といって残念そうな顔をした。  私で届いた。それには来ないでもよろしいという文句だけしかなかった。私はそれを母に見せた。 「大方手紙で何とかいってきて下さるつもりだろうよ」  母はどこまでも先生が私のために衣食の口を周旋してくれるものとばかり解釈しているらしかった。私もあるいはそうかとも考えたが、先生の平生から推べからざる事のように私には見えた。 「とにかく私の手紙はまだ向うへ着いていないはずだから、この電報はその前に出したものに違いないですね」  私は母に向かってこんな分り切った事をいった。母はまたもっともらしく思案しながら「そうだね」と答えた。私の手紙を読まない前に、先生がこの電報を打ったという事が、先生を解釈する上において、何の役にも立たないのは知れているのに。  その日はちょうど主治医が町から院長を連れて来るはずになっていたので、母と私はそれぎりこの事件について話をする機会がなかった。二人の医者は立ち合いの上、病人に浣腸などをして帰って行った。  父は医者から安臥ばかり隔たった所に住んでいる人が見舞に来た時、父は「ああ作さんか」といって、どんよりした眼を作さんの方に向けた。 「作さんよく来てくれた。作さんは丈夫で羨だ」 「そんな事はないよ。お前なんか子供は二人とも大学を卒業するし、少しぐらい病気になったって、申し分はないんだ。おれをご覧よ。かかあには死なれるしさ、子供はなしさ。ただこうして生きているだけの事だよ。達者だって何の楽しみもないじゃないか」  浣腸しそうな顔をした。 「そりゃ結構です」と妹の夫もいった。 「何の口だかまだ分らないのか」と兄が聞いた。  私は今更それを否定する勇気を失った。自分にも何とも訳の分らない曖昧な返事をして、わざと席を立った。  父の病気は最後の一撃を待つ間際にはいった。  父は傍にそっと置かれた人のように静かにしていた。私は忍び足でまた自分の寝床へ帰った。  私は兄といっしょの蚊帳って休んだ。 「関さんも気の毒だね。ああ幾日も引っ張られて帰れなくっちゃあ」  関というのはその人の苗字であった。 「しかしそんな忙しい身体でもないんだから、ああして泊っていてくれるんでしょう。関さんよりも兄さんの方が困るでしょう、こう長くなっちゃ」 「困っても仕方がない。外の事と違うからな」  兄と床かった。そうしてお互いにお互いがどんな事を思っているかをよく理解し合っていた。 「お父さんは、まだ治る気でいるようだな」と兄が私にいった。  実際兄のいう通りに見えるところもないではなかった。近所のものが見舞にくると、父は必ず会うといって承知しなかった。会えばきっと、私の卒業祝いに呼ぶ事ができなかったのを残念がった。その代り自分の病気が治ったらというような事も時々付け加えた。 「お前の卒業祝いは已る父の態度も、にがにがしく私の眼に映った。  私たちはそれほど仲の好で、兄と私は握手したのであった。 「お前これからどうする」と兄は聞いた。私はまた全く見当の違った質問を兄に掛けた。 「一体家の財産はどうなってるんだろう」 「おれは知らない。お父さんはまだ何ともいわないから。しかし財産っていったところで金としては高の知れたものだろう」  母はまた母で先生の返事の来るのを苦にしていた。 「まだ手紙は来ないかい」と私を責めた。 「先生先生というのは一体誰の事だい」と兄が聞いた。 「こないだ話したじゃないか」と私の説明を忘れてしまう兄に対して不快の念を起した。 「聞いた事は聞いたけれども」  兄は必竟らないというのであった。私から見ればなにも無理に先生を兄に理解してもらう必要はなかった。けれども腹は立った。また例の兄らしい所が出て来たと思った。  先生先生と私が尊敬する以上、その人は必ず著名の士でなくてはならないように兄は考えていた。少なくとも大学の教授ぐらいだろうと推察していた。名もない人、何もしていない人、それがどこに価値をもっているだろう。兄の腹はこの点において、父と全く同じものであった。けれども父が何もできないから遊んでいるのだと速断するのに引きかえて、兄は何かやれる能力があるのに、ぶらぶらしているのは詰らした。 「イゴイストはいけないね。何もしないで生きていようというのは横着な了簡だ」  私は兄に向かって、自分の使っているイゴイストという言葉の意味がよく解るかと聞き返してやりたかった。 「それでもその人のお蔭さんも喜んでるようじゃないか」  兄は後からこんな事をいった。先生から明瞭していない事に、神経を悩まさなければならなかった。  父が変な黄色いものも嘔いた時、私はかつて先生と奥さんから聞かされた危険を思い出した。「ああして長く寝ているんだから胃も悪くなるはずだね」といった母の顔を見て、何も知らないその人の前に涙ぐんだ。  兄と私が茶の間で落ち合った時、兄は「聞いたか」といった。それは医者が帰り際に兄に向っていった事を聞いたかという意味であった。私には説明を待たないでもその意味がよく解っていた。 「お前ここへ帰って来て、宅の事を監理する気がないか」と兄が私を顧みた。私は何とも答えなかった。 「お母さん一人じゃ、どうする事もできないだろう」と兄がまたいった。兄は私を土の臭いで朽ちて行っても惜しくないように見ていた。 「本を読むだけなら、田舎いだろう」 「兄さんが帰って来るのが順ですね」と私がいった。 「おれにそんな事ができるものか」と兄は一口ちていた。 「お前がいやなら、まあ伯父さんにでも世話を頼むんだが、それにしてもお母さんはどっちかで引き取らなくっちゃなるまい」 「お母さんがここを動くか動かないかがすでに大きな疑問ですよ」  兄弟はまだ父の死なない前から、父の死んだ後について、こんな風に語り合った。  父は時々囈語をいうようになった。 「乃木大将から」  こんな言葉をひょいひょい出した。母は気味を悪がった。なるべくみんなを枕元い出すらしかった。 「あんな憐かったんだよ」  母は父のために箒のように耳へ受け入れた。  父は自分の眼の前に薄暗く映る死の影を眺めながら、まだ遺言らしいものを口に出さなかった。 「今のうち何か聞いておく必要はないかな」と兄が私の顔を見た。 「そうだなあ」と私は答えた。私はこちらから進んでそんな事を持ち出すのも病人のために好に相談をかけた。伯父も首を傾けた。 「いいたい事があるのに、いわないで死ぬのも残念だろうし、といって、こっちから催促するのも悪いかも知れず」  話はとうとう愚図愚図にいるものも助かります」といった。  父は時々眼を開けて、誰状態を普通の眠りと取り違えたのも無理はなかった。  そのうち舌が段々縺より不断以上に調子を張り上げて、耳元へ口を寄せるようにしなければならなかった。 「頭を冷やすと好い心持ですか」 「うん」  私は看護婦を相手に、父の水枕いた方の左手を出して、その郵便を受け取った私はすぐ不審を起した。  それは普通の手紙に比べるとよほど目方の重いものであった。並に差し込んだ。  その日は病人の出来がことに悪いように見えた。私した。 「どうも様子が少し変だからなるべく傍にいるようにしなくっちゃいけないよ」と注意した。  私もそう思っていた。懐中いた。首肯かない時は、母が声を張りあげて、何々さんです、分りましたかと念を押した。 「どうも色々お世話になります」  父はこういった。そうしてまた昏睡状態に陥った。枕辺てた。  私は繊維の強い包み紙を引き掻くように裂まれてあった。私は癖のついた西洋紙を、逆に折り返して読みやすいように平たくした。  私の心はこの多量の紙と印気られていた。 「あなたから過去を問いただされた時、答える事のできなかった勇気のない私は、今あなたの前に、それを明白に物語る自由を得たと信じます。しかしその自由はあなたの上京を待っているうちにはまた失われてしまう世間的の自由に過ぎないのであります。したがって、それを利用できる時に利用しなければ、私の過去をあなたの頭に間接の経験として教えて上げる機会を永久に逸になります。私はやむを得ず、口でいうべきところを、筆で申し上げる事にしました」  私はそこまで読んで、始めてこの長いものが何のために書かれたのか、その理由を明らかに知る事ができた。私の衣食の口、そんなものについて先生が手紙を寄こす気遣ることの嫌いな先生が、どうしてあの事件をこう長く書いて、私に見せる気になったのだろう。先生はなぜ私の上京するまで待っていられないだろう。 「自由が来たから話す。しかしその自由はまた永久に失われなければならない」  私は心のうちでこう繰り返しながら、その意味を知るに苦しんだ。私は突然不安に襲われた。私はつづいて後け抜けるようにしてみんなのいる方へ行った。私はいよいよ父の上に最後の瞬間が来たのだと覚悟した。  病室にはいつの間にか医者が来ていた。なるべく病人を楽にするという主意からまた浣腸てがったりした。  父の様子は少しくつろいで来た。三十分ほど枕元に、もしもの事があったらいつでも呼んでくれるようにわざわざ断っていた。  私は今にも変んで机の上に置こうとした。その時ふと結末に近い一句が私の眼にはいった。 「この手紙があなたの手に落ちる頃には、私はもうこの世にはいないでしょう。とくに死んでいるでしょう」  私ははっと思った。今までざわざわと動いていた私の胸が一度に凝結たそうに畳んだ。  私はまた父の様子を見に病室の戸口まで行った。病人の枕辺としていなかった。  私はまた病室を退へ急がせた。  私は停車場の壁へ紙片から先生の手紙を出して、ようやく始めからしまいまで眼を通した。 「……私すべきところを黙っていたのですから、私はこの怠慢の罪をあなたの前に謝したいと思います。  その後を認めています。あなたに許してもらわなくてはなりません。  あなたの手紙、――あなたから来た最後の手紙――を読んだ時、私は悪い事をしたと思いました。それでその意味の返事を出そうかと考えて、筆を執めました。どうせ書くなら、この手紙を書いて上げたかったから、そうしてこの手紙を書くにはまだ時機が少し早過ぎたから、已めにしたのです。私がただ来るに及ばないという簡単な電報を再び打ったのは、それがためです。 「私な心持です。私はあなたに対してこの厭な心持を避けるためにでも、擱いた筆をまた取り上げなければならないのです。  その上私は書きたいのです。義務は別として私の過去を書きたいのです。私の過去は私だけの経験だから、私だけの所有といっても差支だから。あなたは真面目に人生そのものから生きた教訓を得たいといったから。  私は暗い人世の影を遠慮なくあなたの頭の上に投げかけて上げます。しかし恐れてはいけません。暗いものを凝ではありません。だからこれから発達しようというあなたには幾分か参考になるだろうと思うのです。  あなたは現代の思想問題について、よく私に議論を向けた事を記憶しているでしょう。私のそれに対する態度もよく解った時、あなたの胸に新しい命が宿る事ができるなら満足です。 「私が両親を亡にいて看護をした母に伝染したのです。  私は二人の間にできたたった一人の男の子でした。宅いから生きていてくれたなら、私はあの鷹揚な気分を今まで持ち続ける事ができたろうにと思います。  私は二人の後かですから覚えていて下さい。  話が本筋して筆がしどろに走るのではないように思います。 「とにかくたった一人取り残された私ての世話をしてくれました。そうして私を私の希望する東京へ出られるように取り計らってくれました。  私は東京へ来て高等学校へはいりました。その時の高等学校の生徒は今よりもよほど殺伐った送金の外に、書籍費、(私はその時分から書物を買う事が好きでした)、および臨時の費用を、よく叔父から請求して、ずんずんそれを自分の思うように消費する事ができたのですから。  何も知らない私は、叔父められたりしていた叔父を、私がどうして疑う事ができるでしょう。私にはただでさえ誇りになるべき叔父でした。父や母が亡くなって、万事その人の世話にならなければならない私には、もう単なる誇りではなかったのです。私の存在に必要な人間になっていたのです。 「私が夏休みを利用して始めて国へ帰った時、両親の死に断えた私の住居に仕方がなかったのです。  叔父はその頃に苦しんだのです。  叔父いくらいに考えていたのです。  子供らしい私は、故郷、休みには帰れると思うその故郷の家をよく夢に見ました。  私の留守の間、叔父はどんな風で引き取られていました。  みんな私の顔を見て喜びました。私はまた父や母のいた時より、かえって賑だからといって、聞きませんでした。  私は折々亡くなった父や母の事を思い出す外か先の距離に望まれるだけでした。私は叔父の希望に承諾を与えないで、ついにまた私の家を去りました。 「私は縁談の事をそれなり忘れてしまいました。私の周囲から考えると、私自身がすでにその組だったのですが、私はそれさえ分らずに、ただ子供らしく愉快に修学の道を歩いて行きました。  学年の終りに、私はまた行李ぎました。その匂いは私に取って依然として懐かしいものでありました。一学年の単調を破る変化としても有難いものに違いなかったのです。  しかしこの自分を育て上げたと同じような匂いの中で、私はまた突然結婚問題を叔父から鼻の先へ突き付けられました。叔父のいう所は、去年の勧誘を再び繰り返したのみです。理由も去年と同じでした。ただこの前勧を妻にする気にはなれませんでした。  叔父かったからです。私が従妹を愛していないごとく、従妹も私を愛していない事は、私によく知れていました。私はまた東京へ出ました。 「私が三度目に帰国したのは、それからまた一年経い心持だったのです。  単純な私は従妹との結婚問題について、さほど頭を痛める必要がないと思っていました。厭なものは断る、断ってさえしまえば後した覚えもなく、相変らずの元気で国へ帰ったのです。  ところが帰って見ると叔父の態度が違っています。元のように好も妙なのです。従妹も妙なのです。中学校を出て、これから東京の高等商業へはいるつもりだといって、手紙でその様子を聞き合せたりした叔父の男の子まで妙なのです。  私の性分んでいたのです。今でも潜んでいるでしょう。  私はたった一人山へ行って、父母の墓の前に跪の意味、半は感謝の心持で跪いたのです。そうして私の未来の幸福が、この冷たい石の下に横たわる彼らの手にまだ握られてでもいるような気分で、私の運命を守るべく彼らに祈りました。あなたは笑うかもしれない。私も笑われても仕方がないと思います。しかし私はそうした人間だったのです。  私の世界は掌いたのです。それ以来私の天地は全く新しいものとなりました。  私が叔父がどうなるか分らないという気になりました。 「私は今まで叔父任まえる機会を得ませんでした。  私は叔父が市の方に妾から思われていたのに、この二、三年来また急に盛り返して来たというのも、その一つでした。しかも私の疑惑を強く染めつけたものの一つでした。  私はとうとう叔父の眼で叔父に対しています。穏やかに解決のつくはずはなかったのです。  遺憾むという意味からして、書きたい事も省かなければなりません。  あなたはまだ覚えているでしょう、私がいつかあなたに、造り付けの悪人が世の中にいるものではないといった事を。多くの善人がいざという場合に突然悪人になるのだから油断してはいけないといった事を。あの時あなたは私に昂奮が動くからです。言葉が空気に波動を伝えるばかりでなく、もっと強い物にもっと強く働き掛ける事ができるからです。 「一口の私です。きたなくなった年数の多いものを先輩と呼ぶならば、私はたしかにあなたより先輩でしょう。  もし私が叔父の希望通り叔父の娘と結婚したならば、その結果は物質的に私に取って有利なものでしたろうか。これは考えるまでもない事と思います。叔父た意地に見えるでしょう。  私と叔父の間に他でした。  それでも彼らは私のために、私の所有にかかる一切を離れる決心をその時に起したのです。叔父の顔を見まいと心のうちで誓ったのです。  私は国を立つ前に、また父と母の墓へ参りました。私はそれぎりその墓を見た事がありません。もう永久に見る機会も来ないでしょう。  私の旧友は私の言葉通りに取り計らってくれました。もっともそれは私が東京へ着いてからよほど経し入れたのです。 「金に不自由のない私を持つ面倒がなくって結構だろうと考え出したのです。それからその駄菓子屋の店に腰を掛けて、上さんに詳しい事を教えてもらいました。  それはある軍人の家族、というよりもむしろ遺族、の住んでいる家でした。主人は何でも日清を訪ねました。  私は未亡人しいのだろうと疑いもしました。 「私は早速の様子を心得ていました。私の新しく主人となった室は、それらよりもずっと立派でした。移った当座は、学生としての私には過ぎるくらいに思われたのです。  室の広さは八畳でした。床きの縁に明るい日がよく差しました。  私は移った日に、その室の床する癖が付いていたのです。  私の父が存生中に活けられたのだという事を知った時、私は心のうちで苦笑しました。もっとも琴は前からそこにあったのですから、これは置き所がないため、やむをえずそのままに立て懸けてあったのでしょう。  こんな話をすると、自然その裏に若い女の影があなたの頭を掠をしました。その代りお嬢さんの方でも赤い顔をしました。  私はそれまで未亡人でなくなりました。同じ床に立て懸けてある琴も邪魔にならなくなりました。  その花はまた規則正しく凋い方ではなかったのです。  それでも臆面られると全く出なくなるのです。  私は喜んでこの下手な活花を眺に耳を傾けました。 「私の気分は国を立つ時すでに厭世的ってしまったのです。  私が東京へ来て下宿を出ようとしたのも、これが大きな源因はしなかったでしょう。  私は小石川になる事さえあったのです。  あなたは定から見ると変なものでも、また自分で考えてみて、矛盾したものでも、私の胸のなかでは平気で両立していたのです。  私は未亡人めるのです。 「奥さんのこの態度が自然私の気分に影響して来ました。しばらくするうちに、私の眼はもとほどきょろ付かなくなりました。自分の心が自分の坐んだ私の眼や疑い深い私の様子に、てんから取り合わなかったのが、私に大きな幸福を与えたのでしょう。私の神経は相手から照り返して来る反射のないために段々静まりました。  奥さんは心得のある人でしたから、わざと私をそんな風りません。  私の心が静まると共に、私は段々家族のものと接近して来ました。奥さんともお嬢さんとも笑談でした。お嬢さんは学校へ行く上に、花だの琴だのを習っているんだから、定めて忙しかろうと思うと、それがまた案外なもので、いくらでも時間に余裕をもっているように見えました。それで三人は顔さえ見るといっしょに集まって、世間話をしながら遊んだのです。  私を呼びに来るのは、大抵お嬢さんでした。お嬢さんは縁側を直角に曲って、私の室の上に眼は着けていながら、お嬢さんの呼びに来るのを待っているくらいなものでした。待っていて来ないと、仕方がないから私の方で立ち上がるのです。そうして向うの室の前へ行って、こっちから「ご勉強ですか」と聞くのです。  お嬢さんの部屋に返事をした事がありませんでした。  時たまお嬢さん一人で、用があって私の室へはいったついでに、そこに坐さえ明らかでした。 「私はお嬢さんの立ったあとで、ほっと一息の私たちは大抵そんなものだったのです。  奥さんは滅多に警戒するところもあるようなのですから、始めてこんな場合に出会った私は、時々心持をわるくしました。  私は奥さんの態度をどっちかに片付まればいつでもここへ落ちて来ました。  それほど女を見縊いを帯びていませんでした。  私は母に対して反感を抱らぬ心配だと思いました。しかし奥さんを悪く思う気はそれからなくなりました。 「私は奥さんの態度を色々綜合を信じないと心に誓いながら、絶対にお嬢さんを信じていたのですから。それでいて、私を信じている奥さんを奇異に思ったのですから。  私は郷里の事について余り多くを語らなかったのです。ことに今度の事件については何もいわなかったのです。私はそれを念頭に浮べてさえすでに一種の不愉快を感じました。私はなるべく奥さんの方の話だけを聞こうと力しかったのです。  私のすべてを聞いた奥さんは、はたして自分の直覚が的中したといわないばかりの顔をし出しました。それからは私を自分の親戚がまた起って来ました。  私が奥さんを疑みました。  奥さんは最初から、無人かだというほどではありませんでした。利害問題から考えてみて、私と特殊の関係をつけるのは、先方に取って決して損ではなかったのです。  私はまた警戒を加えました。けれども娘に対して前いったくらいの強い愛をもっている私が、その母に対していくら警戒を加えたって何になるでしょう。私は一人で自分を嘲笑らなくなるのです。不愉快なのではありません。絶体絶命のような行き詰まった心持になるのです。それでいて私は、一方にお嬢さんを固く信じて疑わなかったのです。だから私は信念と迷いの途中に立って、少しも動く事ができなくなってしまいました。私にはどっちも想像であり、またどっちも真実であったのです。 「私は相変らず学校へ出席していました。しかし教壇に立つ人の講義が、遠くの方で聞こえるような心持がしました。勉強もその通りでした。眼の中へはいる活字は心の底まで浸って彼らを驚かした事もあります。  私の宿は人出入にいたと同じ事です。  しかしこれはただ思い出したついでに書いただけで、実はどうでも構わない点です。ただそこにどうでもよくない事が一つあったのです。茶の間か、さもなければお嬢さんの室も心のうちで繰り返すのです。  私は自由な身体された私は、これから先どんな事があっても、人には欺されまいと決心したのです。 「私が書物ばかり買うのを見て、奥さんは少し着物を拵ないという気は少しも起りませんでした。  その頃から見ると私も大分を買ってやりたかったのです。それで万事を奥さんに依頼しました。  奥さんは自分一人で行くとはいいません。私にもいっしょに来いと命令するのです。お嬢さんも行かなくてはいけないというのです。今と違った空気の中に育てられた私どもは、学生の身分として、あまり若い女などといっしょに歩き廻しましたが、思い切って出掛けました。  お嬢さんは大層着飾っていました。地体を豊富に塗ったものだからなお目立ちます。往来の人がじろじろ見てゆくのです。そうしてお嬢さんを見たものはきっとその視線をひるがえして、私の顔を見るのだから、変なものでした。  三人は日本橋だとか、それはよく似合うとか、とにかく一人前の口を聞きました。  こんな事で時間が掛心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。  我々は夜で日本橋へ出掛けたところを、その男にどこかで見られたものとみえます。 「私は宅らしました。  私は肝心を取るか、それにさえ迷っているのではなかろうかと思われるところもありました。  話しているうちに、私は色々の知識を奥さんから得たような気がしました。しかしそれがために、私は機会を逸へ帰ろうとしました。  さっきまで傍を見付け出しました。私の着物もお嬢さんのも同じ戸棚の隅に重ねてあったのです。  私が何ともいわずに席を立ち掛けると、奥さんは急に改まった調子になって、私にどう思うかと聞くのです。その聞き方は何をどう思うのかと反問しなければ解くらな方がいいだろうと答えました。奥さんは自分もそう思うといいました。  奥さんとお嬢さんと私の関係がこうなっている所へ、もう一人男が入いて断行してしまいました。 「私はその友達の名をここにKと呼んでおきます。私はこのKと小供でした。  Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏で先生が名簿を呼ぶ時に、Kの姓が急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。  Kの養子先もかなりな財産家でした。Kはそこから学資を貰するような事をいっていたのです。  しかし我々は真面目していました。  Kは中学にいた頃から、宗教とか哲学とかいうむずかしい問題で、私を困らせました。これは彼の父の感化なのか、または自分の生れた家、すなわち寺という一種特別な建物に属する空気の影響なのか、解になるくらいな語気で私は賛成したのです。 「Kと私は同じ科へ入学しました。Kは澄ました顔をして、養家から送ってくれる金で、自分の好きな道を歩き出したのです。知れはしないという安心と、知れたって構うものかという度胸とが、二つながらKの心にあったものと見るよりほか仕方がありません。Kは私よりも平気でした。  最初の夏休みにKは国へ帰りませんでした。駒込らない事ですが、私はよくそれを思うのです。  私はまた彼の室に聖書を見ました。私はそれまでにお経がる書物なら読んでみるのが当り前だろうともいいました。その上彼は機会があったら、『コーラン』も読んでみるつもりだといいました。彼はモハメッドと剣という言葉に大いなる興味をもっているようでした。  二年目の夏に彼は国から催促を受けてようやく帰りました。帰っても専門の事は何にもいわなかったものとみえます。家やすぐどうだったとKに問いました。Kはどうでもなかったと答えたのです。  三度目の夏はちょうど私が永久に父母の墳墓の地を去ろうと決心した年です。私はその時Kに帰国を勧めましたが、Kは応じませんでした。そう毎年き通す気はなかったらしいのです。また欺こうとしても、そう長く続くものではないと見抜いたのかも知れません。 「Kの手紙を見た養父は大変怒りました。親を騙まるか、そこはこれから起る問題として、差し当りどうかしなければならないのは、月々に必要な学資でした。  私はその点についてKに何か考うするために、Kの感情を傷つけるに忍びませんでした。それで彼の思う通りにさせて、私は手を引きました。  Kは自分の望むような口をほどなく探し出しました。しかし時間を惜な彼は笑うだけで、少しも私の注意に取り合いませんでした。  同時に彼と養家との関係は、段々こん絡り上、Kに同情していた私は、それ以後は理否を度外に置いてもKの味方をする気になりました。  最後にKはとうとう復籍に決しました。養家から出してもらった学資は、実家で弁償する事になったのです。その代り実家の方でも構わないから、これからは勝手にしろというのです。昔の言葉でいえば、まあ勘当に似たところがありはしないかと疑われます。 「Kの事件が一段落ついた後は彼の姉の夫から長い封書を受け取りました。Kの養子に行った先は、この人の親類に当るのですから、彼を周旋した時にも、彼を復籍させた時にも、この人の意見が重きをなしていたのだと、Kは私に話して聞かせました。  手紙にはその後Kがどうしているか知らせてくれと書いてありました。姉が心配しているから、なるべく早く返事を貰よりもこの姉の方が、かえって本当の母らしく見えたのでしょう。  私はKに手紙を見せました。Kは何ともいいませんでしたけれども、自分の所へこの姉から同じような意味の書状が二、三度来たという事を打ち明けました。Kはそのたびに心配するに及ばないと答えてやったのだそうです。運悪くこの姉は生活に余裕のない家に片付いたために、いくらKに同情があっても、物質的に弟をどうしてやる訳にも行かなかったのです。  私はKと同じような返事を彼の義兄宛に対する意地もあったのです。  Kの復籍したのは一年生の時でした。それから二年生の中頃だと考えました。  私は彼に向って、余計な仕事をするのは止との事で彼を私の家に連れて来ました。 「私の座敷には控えの間んだのです。  前にも話した通り、奥さんは私のこの所置に対して始めは不賛成だったのです。下宿屋ならば、一人より二人が便利だし、二人より三人が得になるけれども、商売でないのだから、なるべくなら止せといい直します。なぜ私のために悪いかと聞くと、今度は向うで苦笑するのです。  実をいうと私だって強も奥さんに打ち明ける気はありませんでした。  私はただKの健康について云々をまるで知らずにいました。私もかえってそれを満足に思って、のっそり引き移って来たKを、知らん顔で迎えました。  奥さんとお嬢さんは、親切に彼の荷物を片付ける世話や何かをしてくれました。すべてそれを私に対する好意から来たのだと解釈した私は、心のうちで喜びました。――Kが相変らずむっちりした様子をしているにもかかわらず。  私がKに向って新しい住居すれば霊の光輝が増すように感ずる場合さえあったのかも知れません。  私はなるべく彼に逆けて温かい水になれば、自分で自分に気が付く時機が来るに違いないと思ったのです。 「私は奥さんからそういう風が取れたごとく、Kの心もここに置けばいつか沈まる事があるだろうと考えたのです。  Kは私より強い決心を有している男でした。勉強も私の倍ぐらいはしたでしょう。その上持って生れた頭の質えるものと信じ切っていたらしいのです。  私はKを説くときに、ぜひそこを明らかにしてやりたかったのです。しかしいえばきっと反抗されるに極へ引き移ってからも、当分の間は批評がましい批評を彼の上に加えずにいました。ただ穏やかに周囲の彼に及ぼす結果を見る事にしたのです。 「私は蔭が出ていたとしか、私には思われなかったのです。  奥さんは取り付き把いて火にあたる必要もなかったのですが、これでは取り付き把がないといわれるのも無理はないと思いました。  それで私はなるべく、自分が中心になって、女二人とKとの連絡をはかるように力りました。  私はある意味から見て実際彼の軽蔑に価び付きかかった彼の血液を新しくしようと試みたのです。  この試みは次第に成功しました。初めのうち融合しにくいように見えたものが、段々一つに纏も打ち明けませんでした。  今まで書物で城壁をきずいてその中に立て籠っていたようなKの心が、段々打ち解けて来るのを見ているのは、私に取って何よりも愉快でした。私は最初からそうした目的で事をやり出したのですから、自分の成功に伴う喜悦を感ぜずにはいられなかったのです。私は本人にいわない代りに、奥さんとお嬢さんに自分の思った通りを話しました。二人も満足の様子でした。 「Kと私く事もありますし、あるいはただ「うん」と答えて行き過ぎる場合もあります。  ある日私は神田に響いたのです。私はお嬢さんに、奥さんはと尋ねました。私の質問には何の意味もありませんでした。家のうちが平常より何だかひっそりしていたから聞いて見ただけの事です。  奥さんははたして留守でした。下女に答えました。下宿人の私にはそれ以上問い詰める権利はありません。私は沈黙しました。  私が着物を改めて席に着くか着かないうちに、奥さんも下女も帰って来ました。やがて晩食げさせたのです。  私はその卓上で奥さんからその日いつもの時刻に肴屋めました。 「一週間ばかりして私を開けて茶の間へ入ったようでした。  夕飯めるような眼をお嬢さんに向けるのに気が付いただけでした。  私は食後Kを散歩に連れ出しました。二人は伝通院でしたから、普通の人間の立場から見て、彼の方が学生らしい学生だったのでしょう。その上彼はシュエデンボルグがどうだとかこうだとかいって、無学な私を驚かせました。  我々が首尾よく試験を済ましました時、二人とももう後していたのです。  私は夏休みにどこかへ行こうかとKに相談しました。Kは行きたくないような口振へ行く事になりました。 「Kはあまり旅へ出ない男でした。私まれて、始終ごろごろしているのです。  私はすぐ厭が、透き通る波の中をあちらこちらと泳いでいるのが鮮やかに指さされました。  私はそこに坐って、よく書物をひろげました。Kは何もせずに黙っている方が多かったのです。私にはそれが考えに耽えた手を放しました。  Kの神経衰弱はこの時もう大分へ連れて来たのです。 「私は思い切って自分の心をKに打ち明けようとしました。もっともこれはその時に始まった訳でもなかったのです。旅に出ない前から、私にはそうした腹ができていたのですけれども、打ち明ける機会をつらまえる事も、その機会を作り出す事も、私の手際なのか、または一種のはにかみなのか、判断はあなたの理解に任せておきます。  Kと私は何でも話し合える中でした。偶歯がゆい不快に悩まされたか知れません。私はKの頭のどこか一カ所を突き破って、そこから柔らかい空気を吹き込んでやりたい気がしました。  あなたがたから見て笑止千万き返されてしまうのです。  或へ散らつき出すと、ちょっと安心した私はすぐ元の不安に立ち返るのです。  Kは落ち付かない私の様子を見て、厭くてぐたぐたになりました。 「こんな風のようなものでした。いくら話をしてもいつもと違って、頭を使う込み入った問題には触れませんでした。  我々はこの調子でとうとう銚子って、その鯛をわざわざ見に出掛けたのです。  その時私はただ一図をしていました。それも面倒になってしまいには全く黙ってしまったのです。  たしかその翌に近い言葉をただ笑って受け取る訳にいきません。私は私で弁解を始めたのです。 「その時私はしきりに人間らしいという言葉を使いました。Kはこの人間らしいという言葉のうちに、私が自分の弱点のすべてを隠しているというのです。なるほど後から考えれば、Kのいう通りでした。しかし人間らしくない意味をKに納得させるためにその言葉を使い出した私には、出立点がすでに反抗的でしたから、それを反省するような余裕はありません。私はなおの事自説を主張しました。するとKが彼のどこをつらまえて人間らしくないというのかと私に聞くのです。私は彼に告げました。――君は人間らしいのだ。あるいは人間らし過ぎるかも知れないのだ。けれども口の先だけでは人間らしくないような事をいうのだ。また人間らしくないように振舞おうとするのだ。  私がこういった時、彼はただ自分の修養が足りないから、他らないのが、いかにも残念だと明言しました。  Kと私とはそれぎり寝てしまいました。そうしてその翌ったといっても同じでしょうが、私のいう気取るとか虚栄とかいう意味は、普通のとは少し違います。それがあなたに通じさえすれば、私は満足なのです。  我々は真黒になって東京へ帰りました。帰った時は私の気分がまた変っていました。人間らしいとか、人間らしくないとかいう小理屈まで歩いて帰ろうというのです。体力からいえばKよりも私の方が強いのですから、私はすぐ応じました。  宅めてくれるのです。お嬢さんは奥さんの矛盾がおかしいといってまた笑い出しました。旅行前時々腹の立った私も、その時だけは愉快な心持がしました。場合が場合なのと、久しぶりに聞いたせいでしょう。 「それのみならず私を奏しました。  やがて夏も過ぎて九月の中頃に認める事はないようになりました。Kは例の眼を私の方に向けて、「今帰ったのか」を規則のごとく繰り返しました。私の会釈もほとんど器械のごとく簡単でかつ無意味でした。  たしか十月の中頃と思います。私は寝坊の続きらしかったのですが、前を聞かない私にはまるで解りませんでした。  そのうちお嬢さんの態度がだんだん平気になって来ました。Kと私がいっしょに宅って来た主意が立たなくなるだけです。私にはそれができないのです。 「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私さえ尽きているのです。私は急に不愉快になりました。  その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。それから私が寒いというのを聞いて、すぐ次の間用事でもできたのだろうといっていました。  私はしばらくそこに坐けて、お嬢さんを渡してやりました。  それから柳町の通りへ出た私はどこへ行って好ぐ宅へ帰って来ました。 「私はKに向ってお嬢さんといっしょに出たのかと聞きました。Kはそうではないと答えました。真砂町は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代り愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。  私はそれまで躊躇な愛の実際家だったのです。  肝心なく自分の思った通りを遠慮せずに口にするだけの勇気に乏しいものと私は見込んでいたのです。 「こんな訳で私見えるのに、どうしても手足の動かせない場合がありましょう。私は時としてああいう苦しみを人知れず感じたのです。  その内を始めたかも知れなかったのです。幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げる事ができました。  それから二、三日経音を立てませんでした。双方ともいるのだかいないのだか分らないくらい静かでした。もっともこういう事は、二人の間柄として別に珍しくも何ともなかったのですから、私は別段それを気にも留めませんでした。  十時頃になって、Kは不意に仕切りの襖けて、心持それをKの方へ押しやるようにしました。  Kはいつもに似合わない話を始めました。奥さんとお嬢さんは市ヶ谷のどこへ行ったのだろうというのです。私は大方叔母に仕方がありませんでした。 「Kはなかなか奥さんとお嬢さんの話を已声が口を破って出るとなると、その声には普通の人よりも倍の強い力がありました。  彼の口元をちょっと眺の準備なのか、私の予覚はまるでなかったのです。だから驚いたのです。彼の重々しい口から、彼のお嬢さんに対する切ない恋を打ち明けられた時の私を想像してみて下さい。私は彼の魔法棒のために一度に化石されたようなものです。口をもぐもぐさせる働きさえ、私にはなくなってしまったのです。  その時の私は恐ろしさの塊を越されたなと思いました。  しかしその先し始めたのです。  Kの話が一通り済んだ時、私は何ともいう事ができませんでした。こっちも彼の前に同じ意味の自白をしたものだろうか、それとも打ち明けずにいる方が得策だろうか、私はそんな利害を考えて黙っていたのではありません。ただ何事もいえなかったのです。またいう気にもならなかったのです。  午食きませんでした。奥さんとお嬢さんはいつ帰るのだか分りませんでした。 「二人は各自と考え込んでいました。  私は当然自分の心をKに打ち明けるべきはずだと思いました。しかしそれにはもう時機が後られてぐらぐらしました。  私はKが再び仕切きません。そうしてKは永久に静かなのです。  その内に仕方がなかったのです。  しまいに私は凝しながらうろついていたのです。  私には第一に彼が解られたのではなかろうかという気さえしました。  私が疲れて宅のないように静かでした。 「私が家へはいると間もなく俥きがかなりの距離でも耳に立つのです。車はやがて門前で留まりました。  私が夕飯えていました。それが知らない人から見ると、まるで返事に迷っているとしか思われないのです。お嬢さんは笑いながらまた何かむずかしい事を考えているのだろうといいました。Kの顔は心持薄赤くなりました。  その晩私はいつもより早く床へ突き付けるのです。私はやむをえず、どろどろした蕎麦湯を奥さんの見ている前で飲みました。  私は遅くなるまで暗いなかで考えていました。無論一つ問題をぐるぐる廻転が真暗なうちに、しんと静まりました。  しかし私の眼はその暗いなかでいよいよ冴な調子で、今度は応じません。そうだなあと低い声で渋っています。私はまたはっと思わせられました。 「Kの生返事に用意をしていた私が、折があったらこっちで口を切ろうと決心するようになったのです。  同時に私は黙って家えて、わざとらしく話を持ち出すよりは、自然の与えてくれるものを取り逃さないようにする方が好かろうと思って、例の問題にはしばらく手を着けずにそっとしておく事にしました。  こういってしまえば大変簡単に聞こえますが、そうした心の経過には、潮くここに落ち付いたものと思って下さい。更にむずかしくいえば、落ち付くなどという言葉は、この際決して使われた義理でなかったのかも知れません。  その内いていた彼ですけれども、彼の信用は私に対して少しも損われていなかったのです。私はそれがためにかえって彼を信じ出したくらいです。だからいくら疑い深い私でも、明白な彼の答えを腹の中で否定する気は起りようがなかったのです。  私はまた彼に向って、彼の恋をどう取り扱うつもりかと尋ねました。それが単なる自白に過ぎないのか、またはその自白についで、実際的の効果をも収める気なのかと問うたのです。しかるに彼はそこになると、何にも答えません。黙って下を向いて歩き出します。私は彼に隠まで突き留める訳にいきません。ついそれなりにしてしまいました。 「ある日私は久しぶりに学校の図書館に入りました。私は広い机の片隅で窓から射す光線を半身に受けながら、新着の外国雑誌を、あちらこちらと引は誰でもやる普通の事なのですが、私はその時に限って、一種変な心持がしました。  Kは低い声で勉強かと聞きました。私はちょっと調べものがあるのだと答えました。それでもKはまだその顔を私から放しません。同じ低い調子でいっしょに散歩をしないかというのです。私は少し待っていればしてもいいと答えました。彼は待っているといったまま、すぐ私の前の空席に腰をおろしました。すると私は気が散って急に雑誌が読めなくなりました。何だかKの胸に一物があって、談判でもしに来られたように思われて仕方がないのです。私はやむをえず読みかけた雑誌を伏せて、立ち上がろうとしました。Kは落ち付き払ってもう済んだのかと聞きます。私はどうでもいいのだと答えて、雑誌を返すと共に、Kと図書館を出ました。  二人は別に行く所もなかったので、竜岡町り付けられた私が、これは様子が違うと明らかに意識したのは当然の結果なのです。  私がKに向って、この際何いでやったか分りません。私はそのくらいの美しい同情をもって生れて来た人間と自分ながら信じています。しかしその時の私は違っていました。 「私はちょうど他流試合でもする人のようにKを注意して見ていたのです。私は、私の眼、私の心、私の身体める事ができたも同じでした。  Kが理想と現実の間に彷徨ごうとしたのです。  Kは真宗寺の方が余計に現われていました。  こういう過去を二人の間に通り抜けて来ているのですから、精神的に向上心のないものは馬鹿だという言葉は、Kに取って痛いに違いなかったのです。しかし前にもいった通り、私はこの一言で、彼が折角らしたつもりではありません。かえってそれを今まで通り積み重ねて行かせようとしたのです。それが道に達しようが、天に届こうが、私は構いません。私はただKが急に生活の方向を転換して、私の利害と衝突するのを恐れたのです。要するに私の言葉は単なる利己心の発現でした。 「精神的に向上心のないものは、馬鹿だ」  私は二度同じ言葉を繰り返しました。そうして、その言葉がKの上にどう影響するかを見詰めていました。 「馬鹿だ」とやがてKが答えました。「僕は馬鹿だ」  Kはぴたりとそこへ立ち留とまた歩き出しました。 「私はKと並んで足を運ばせながら、彼の口を出る次の言葉を腹の中で暗めるには余りに正直でした。余りに単純でした。余りに人格が善良だったのです。目のくらんだ私は、そこに敬意を払う事を忘れて、かえってそこに付け込んだのです。そこを利用して彼を打ち倒そうとしたのです。  Kはしばらくして、私の名を呼んで私の方を見ました。今度は私の方で自然と足を留めました。するとKも留まりました。私はその時やっとKの眼を真向のごとき心を罪のない羊に向けたのです。 「もうその話は止い付くように。 「止めてくれって、僕がいい出した事じゃない、もともと君の方から持ち出した話じゃないか。しかし君が止めたければ、止めてもいいが、ただ口の先で止めたって仕方があるまい。君の心でそれを止めるだけの覚悟がなければ。一体君は君の平生の主張をどうするつもりなのか」  私がこういった時、背のようでした。また夢の中の言葉のようでした。  二人はそれぎり話を切り上げて、小石川を感じ出したぐらいです。  急いだためでもありましょうが、我々は帰り路へ引き取りました。 「その頃と我慢がありました。私はこの双方の点においてよく彼の心を見抜いていたつもりなのです。  上野の事にかけては何をしても彼に及ばなかった私も、その時だけは恐るるに足りないという自覚を彼に対してもっていたのです。  私はほどなく穏やかな眠りに落ちました。しかし突然私の名を呼ぶ声で眼を覚ましました。見ると、間の襖めていました。  その時Kはもう寝たのかと聞きました。Kはいつでも遅くまで起きている男でした。私は黒い影法師を背中に受けているので、彼の顔色や眼つきは、全く私には分りませんでした。けれども彼の声は不断よりもかえって落ち付いていたくらいでした。  Kはやがて開けた襖をぴたりと立て切りました。私の室はすぐ元の暗闇した返事もしません。調子の抜けた頃になって、近頃は熟睡ができるのかとかえって向うから私に問うのです。私は何だか変に感じました。  その日ちょうど同じ時間に講義の始まる時間割になっていたので、二人はやがていっしょに宅え始めたのです。 「Kの果断に富んだ性格は私に思い込んでしまったのです。  私は私にも最後の決断が必要だという声を心の耳で聞きました。私はすぐその声に応じて勇気を振り起しました。私はKより先に、しかもKの知らない間の日ばかり続いて、どうしても「今だ」と思う好都合が出て来てくれないのです。私はいらいらしました。  一週間の後くない病人らしく見えただろうと思います。  私は飯を終いたりして、私に調子を合わせています。私は奥さんに特別な用事でもあるのかと問いました。奥さんはいいえと答えましたが、今度は向うでなぜですと聞き返して来ました。私は実は少し話したい事があるのだといいました。奥さんは何ですかといって、私の顔を見ました。奥さんの調子はまるで私の気分にはいり込めないような軽いものでしたから、私は次に出すべき文句も少し渋りました。  私は仕方なしに言葉の上で、好何かいいはしなかったかと奥さんに聞いてみました。奥さんは思いも寄らないという風をして、「何を?」とまた反問して来ました。そうして私の答える前に、「あなたには何かおっしゃったんですか」とかえって向うで聞くのです。 「Kから聞かされた打ち明け話を、奥さんに伝える気のなかった私は、「いいえ」といってしまった後で、すぐ自分の嘘いたいのだ」とすぐ答えたら笑い出しました。そうして「よく考えたのですか」と念を押すのです。私はいい出したのは突然でも、考えたのは突然でないという訳を強い言葉で説明しました。  それからまだ二つ三つの問答がありましたが、私はそれを忘れてしまいました。男のように判然では向うから頼みました。  話は簡単でかつ明瞭るのが順序らしいと私が注意した時、奥さんは「大丈夫です。本人が不承知の所へ、私があの子をやるはずがありませんから」といいました。  自分の室い込んで来たくらいです。けれども大体の上において、私の未来の運命は、これで定められたのだという観念が私のすべてを新たにしました。  私は午頃の方へ曲ってしまいました。 「私は猿楽町る時は、もうあの話が済んだ頃だとも思いました。  私はとうとう万世橋るくらい、一方に緊張していたとみればそれまでですが、私の良心がまたそれを許すべきはずはなかったのですから。  Kに対する私の良心が復活したのは、私が宅の格子の真中にでも立っていたならば、私はきっと良心の命令に従って、その場で彼に謝罪したろうと思います。しかし奥には人がいます。私の自然はすぐそこで食い留められてしまったのです。そうして悲しい事に永久に復活しなかったのです。  夕飯かりました。奥さんは微笑しながらまた私の顔を見るのです。  私は食卓に着いた初めから、奥さんの顔付になったのです。 「私はそのまま二、三日過ごしました。その二、三日の間Kに対する絶えざる不安が私の胸を重くしていたのはいうまでもありません。私はただでさえ何とかしなければ、彼に済まないと思ったのです。その上奥さんの調子や、お嬢さんの態度が、始終私を突ッつくように刺戟も、Kの心を曇らす不審の種とならないとは断言できません。私は何とかして、私とこの家族との間に成り立った新しい関係を、Kに知らせなければならない位置に立ちました。しかし倫理的に弱点をもっていると、自分で自分を認めている私には、それがまた至難の事のように感ぜられたのです。  私は仕方がないから、奥さんに頼んでKに改めてそういってもらおうかと考えました。無論私のいない時にです。しかしありのままを告げられては、直接と間接の区別があるだけで、面目でも、私には堪え切れない不幸のように見えました。  要するに私は正直な路みました。  五、六日経るのです。私はこの問いの前に固くなりました。その時奥さんが私を驚かした言葉を、私は今でも忘れずに覚えています。 「道理で妾あんなに親しくしている間柄だのに、黙って知らん顔をしているのは」  私はKがその時何かいいはしなかったかと奥さんに聞きました。奥さんは別段何にもいわないと答えました。しかし私は進んでもっと細より何も隠す訳がありません。大した話もないがといいながら、一々Kの様子を語って聞かせてくれました。  奥さんのいうところを綜合るような苦しさを覚えました。 「勘定して見ると奥さんがKに話をしてからもう二日余りになります。その間Kは私に対して少しも以前と異なった様子を見せなかったので、私は全くそれに気が付かずにいたのです。彼の超然とした態度はたとい外観だけにもせよ、敬服に値かせられるのは、私の自尊心にとって大いな苦痛でした。  私が進もうか止しているのです。  私はおいといって声を掛けました。しかし何の答えもありません。おいどうかしたのかと私はまたKを呼びました。それでもKの身体してみました。  その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の眼は彼の室の中を一目え出したのです。  それでも私はついに私を忘れる事ができませんでした。私はすぐ机の上に置いてある手紙に眼を着けました。それは予期通り私の名宛の上だけで助かったのですが、その世間体がこの場合、私にとっては非常な重大事件に見えたのです。)  手紙の内容は簡単でした。そうしてむしろ抽象的でした。自分は薄志弱行の余りで書き添えたらしく見える、もっと早く死ぬべきだのになぜ今まで生きていたのだろうという意味の文句でした。  私は顫っている血潮を始めて見たのです。 「私は突然Kの頭を抱と冷たくなったこの友達によって暗示された運命の恐ろしさを深く感じたのです。  私は何の分別のような態度で。  私は時々奥へ行って奥さんを起そうという気になります。けれども女にこの恐ろしい有様を見せては悪いという心持がすぐ私を遮えつけます。私はまたぐるぐる廻り始めるのです。  私はその間に自分の室の洋燈れた私は、永久に暗い夜が続くのではなかろうかという思いに悩まされました。  我々は七時前に起きる習慣でした。学校は八時に始まる事が多いので、それでないと授業に間に合わないのです。下女んでいました。 「私は奥さんに気の毒でしたけれども、また立って今閉めたばかりの唐紙き込みました。しかしはいろうとはしません。そこはそのままにしておいて、雨戸を開けてくれと私にいいました。  それから後れませんでした。  Kは小さなナイフで頸動脈しいのに驚きました。  奥さんと私はできるだけの手際に横にしました。私はそれから彼の実家へ電報を打ちに出たのです。  私が帰った時は、Kの枕元を与えてくれたものは、その時の悲しさでした。  私は黙って二人の傍っていたのです。  国元からKの父と兄が出て来た時、私はKの遺骨をどこへ埋を新たにしたかったのです。今まで構い付けなかったKを、私が万事世話をして来たという義理もあったのでしょう、Kの父も兄も私のいう事を聞いてくれました。 「Kの葬式の帰り路に、私はその友人の一人から、Kがどうして自殺したのだろうという質問を受けました。事件があって以来私はもう何度となくこの質問で苦しめられていたのです。奥さんもお嬢さんも、国から出て来たKの父兄も、通知を出した知り合いも、彼とは何の縁故もない新聞記者までも、必ず同様の質問を私に掛けない事はなかったのです。私の良心はそのたびにちくちく刺されるように痛みました。そうして私はこの質問の裏に、早くお前が殺したと白状してしまえという声を聞いたのです。  私の答えは誰に対しても同じでした。私はただ彼の私宛に何とか書いたのはないかと聞きました。友人は自分の眼に着いたのは、ただその二種ぎりだと答えました。  私が今おる家へ引めたのです。  移って二カ月ほどしてから私は無事に大学を卒業しました。卒業して半年も経いていました。私はこの幸福が最後に私を悲しい運命に連れて行く導火線ではなかろうかと思いました。  結婚した時お嬢さんが、――もうお嬢さんではありませんから、妻めていましたが、妻からなぜそんな顔をするのかと問われて始めて気が付きました。  私は妻の望み通り二人連れ立って雑司ヶ谷を述べてKに喜んでもらうつもりでしたろう。私は腹の中で、ただ自分が悪かったと繰り返すだけでした。  その時妻はKの墓を撫を感ぜずにはいられなかったのです。私はそれ以後決して妻といっしょにKの墓参りをしない事にしました。 「私の亡友に対するこうした感じはいつまでも続きました。実は私も初めからそれを恐れていたのです。年来の希望であった結婚すら、不安のうちに式を挙げたといえばいえない事もないでしょう。しかし自分で自分の先が見えない人間の事ですから、ことによるとあるいはこれが私の心持を一転して新しい生涯に入も聞かなくてはなりません。私はそのたびに苦しみました。  私は一層なく振り掛けるのは、私にとって大変な苦痛だったのだと解釈して下さい。  一年経めだしたのです。  妻はそれを今日を尽かした私は、自分にも愛想を尽かして動けなくなったのです。 「書物の中に自分を生埋ります。  妻の母は時々気拙人間が違った」といいました。それだけならまだいいのですけれども、「Kさんが生きていたら、あなたもそんなにはならなかったでしょう」というのです。私はそうかも知れないと答えた事がありましたが、私の答えた意味と、妻の了解した意味とは全く違っていたのですから、私は心のうちで悲しかったのです。それでも私は妻に何事も説明する気にはなれませんでした。  私は時々妻に詫になったから止めたといった方が適当でしょう。  酒は止めたけれども、何もする気にはなりません。仕方がないから書物を読みます。しかし読めば読んだなりで、打でした。どこからも切り離されて世の中にたった一人住んでいるような気のした事もよくありました。  同時に私はKの死因を繰り返し繰り返し考えたのです。その当座は頭がただ恋の一字で支配されていたせいでもありましょうが、私の観察はむしろ簡単でしかも直線的でした。Kは正り始めたからです。 「その内妻しとでも名づけなければならない、一種の気分に支配されていたのです。  母は死にました。私と妻みました。  母の亡くなった後しがる性質が、男よりも強いように思われますから。  妻はある時、男の心と女の心とはどうしてもぴたりと一つになれないものだろうかといいました。私はただ若い時ならなれるだろうと曖昧らしました。  私の胸にはその時分から時々恐ろしい影が閃てもらう気にはなりませんでした。  私はただ人間の罪というものを深く感じたのです。その感じが私をKの墓へ毎月うたれたいとまで思った事もあります、こうした階段を段々経過して行くうちに、人に鞭うたれるよりも、自分で自分を鞭うつべきだという気になります。自分で自分を鞭うつよりも、自分で自分を殺すべきだという考えが起ります。私は仕方がないから、死んだ気で生きて行こうと決心しました。  私がそう決心してから今日に対して非常に気の毒な気がします。 「死んだつもりで生きて行こうと決心した私の心は、時々外界の刺戟やかな声で笑います。自分でよく知っているくせにといいます。私はまたぐたりとなります。  波瀾るかも知れませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。  私は今日べるのは、無理という点から見ても、痛ましい極端としか私には思えませんでした。  同時に私だけがいなくなった後められるのです。  記憶して下さい。私はこんな風いたのではありません。全く会う気でいたのです。秋が去って、冬が来て、その冬が尽きても、きっと会うつもりでいたのです。  すると夏の暑い盛りに明治天皇いました。 s 「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。  それから約一カ月ほど経の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。  私は新聞で乃木大将の死ぬ前に書き残して行ったものを読みました。西南戦争が苦しいか、どっちが苦しいだろうと考えました。  それから二、三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がよく解したつもりです。  私は妻したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。  私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然ば以上は自分自身の要求に動かされた結果なのです。  しかし私は今その要求を果たしました。もう何にもする事はありません。この手紙があなたの手に落ちる頃に、この長いものの大部分を書きました。時々妻が帰って来ると、私はすぐそれを隠しました。  私は私の過去を善悪ともに他でも、妻が生きている以上は、あなた限りに打ち明けられた私の秘密として、すべてを腹の中にしまっておいて下さい。」